ZS 1657文字
2017年ころ書いた超初期のSSです。絶賛サンジイヤー中の自己治療。
コックがいねえ。
キッチンにまだ灯りがあったので、ゾロは飲み足りない酒を取りに来たのだが、いつもの主がそこにはいなかった。
見張り当番のフランキー以外、皆寝静まった夜更け。てっきりコックは明日の仕込みにまだかかりきりだと思っていたのだ。
ここに居ねえのなら、何処に行った?
酒を取りに来た筈の本来の目的を早々に忘れて、ゾロはキッチンを足早に出た。
外は、ずっと雨だったようだ。
先ほどより小降りになっているせいか、雨音も殆どなく、濡れるのを気にするほどではない。
この時間、寝室にいないのなら風呂か?ただでさえ人より遅く寝て人より早く起きる、バカの付くほど働くヤツの事だ。今頃風呂に入っていても不思議はない。
心なしか足音を控えながら、風呂場の扉へ向かう。しかし灯りはない。
どこかの甲板で煙でも吐き散らしているのか?
いつの間にか霧雨に変わった雨が、はらはらと緑の髪に落ちる。
夜の帳に、ザザ…ザザ…とさざめく波の音と、ゾロの足音だけが響く。
ふと、ゾロの頭にある場所が浮かんだ。
アクアリウム。
なぜそう思ったのかは分からない。
繰り返す波の音が、ゾロの耳にある予感を運んだのかも知れない。
ゾロは踵を返し、アクアリウムのある扉の方へと向かった。
仄暗い灯りの向こうに、濃紺から薄蒼色までのグラデーションを湛えた大きな水槽がゾロの視界を占拠した。
普段、こんな時間にこの部屋に来ることのないゾロは、薄明かりが人の在室を意味するのか瞬時には分からなかった。
「コック、居るのか?」
呼びかけつつ、扉を閉めて奥へと向かう。
扉から一番遠い端に、うずくまる人影が見えた。
「コック?おい、何してんだこんな所で」
声をかけた人影は、確かにこの船のコック、サンジだ。
だが、ソファに膝を抱えうずくまる小さな頭は、ゾロの呼びかけに反応せず、身動きをしない。
「おい…」
その肩に手を触れようとして一瞬、ゾロは躊躇った。微かに震えているのだ。
膝を抱え震えるサンジ。
そんなコックを今まで見た事はない。俺の知ってるコックは、クソ生意気で、横柄で、女にはヘラヘラと鬱陶しくて、たまに見せる子供のような笑顔が無邪気で……
それなのに、いま目の前にいる、無防備に震える男があのコックか。
ゾロは半ば衝動的に、サンジの手を強く掴んだ。ハッ、と驚いてサンジが上げた顔には、怯えと微かな戸惑いが滲んでいた。
「…どうした」
「ゾ…ゾロ…?」
「何かあったか?」
サンジの視線に合わせてしゃがんだゾロが問いを投げると、返事の代わりに、縋るような沈黙が返された。
その透ける金色の髪の向こうに、群青色の水が淡い光を湛えて揺らめく。魚の鱗が一瞬、キラリと過ぎった。水槽を背にした蒼白い顔は小さく、小さく、遠ざかるように小さく…
「…!…」
ゾロは思わず強く手を引きサンジの背中を抱えた。
酷く、冷えた薄い背中。何に怯えているのか震える背中。
怯えている…?怯えているのは俺だ。
この腕の中に強く抱き込んでいるというのに、今にも煙のように消えてしまいそうだ。
嫌だ。
何処にも、行くな。
ゾロは掻き抱く腕の力を更に込めた。
「コック、てめぇ…消えそうだぞ」
「……?何言って…」
「海の水に吸い込まれるかと…」
丸い頭に指をかき入れ、確認するように何度も髪を掬う。抱えた背中の体温が徐々に昇ってゆくのに沿って、ゾロの焦燥も次第に凪いだ。
震えは、もう無かった。
「悪ぃ…大丈夫だ」
「……」
「ちっとばかり、昔の夢を見ちまってな」
「…雨か?」
「え?」
「雨ん時に、てめぇ時々消えそうになんだろ」
「んぁ?そうか?」
「…焦る」
「……」
サンジはゆっくり顔を上げるとゾロを見てふは、と破顔した。
「んじゃ、そん時はさ。また今みたいにしてくれよ。そしたら多分帰って来れる」
蒼い右目が少し悪戯な光を帯びて微笑んだ。
だがその金糸に覆われ見えぬ左目の方に、果たして彼を引き戻そうとする何の傷跡が隠されているのか、ゾロにはまだ、測る由もなかった。
今は、まだ。
「多分じゃねぇ、絶対戻れ」
腹の底にジワリと復活した焦りを押しとどめるように、ゾロはその薄く開いた唇を封じた。
終