海賊、WCIを経た後くらい。これはあの時のサくんの心の傷を感じ取ることのできるゾ。
あのぐる眉が黙って静かでいる時に、何を考えてやがるのかおれは知らない。知る気もない。大抵はメシの事か女の事か、どっちかしか無いだろうと思うからだ。
けれど今夜の様子は少し違った。
いつぶりかも思い出せないほどの穏やかな夜の波の上を、滑るように船は走っている。一旦寝ようとしてなんとなく寝付けず、寝酒の一杯程度でもひっかけてからにするかとキッチンへ近づいてみると、夜中というのにまだ明かりが灯っていた。台所の主がそこに居るなら「貴重な酒をガブガブ飲むな」だのと煩いかもしれない。今晩のところは諦めるかと引き返そうとした時に、甲板の方に気配を感じてそっと移動してみた。
果たしてそこに、手すりにもたれて煙をふかしている人影がある。
月明かりがほんのりと闇間を照らして輪郭だけ浮き上がり、表情はよく見えない。ただ、その佇まいは普段のコックから遠く離れたところにあった。黒く揺れる波間に灰を散らし、ふうと吐き出す呼吸の音だけが、人影が蜃気楼ではない事を表していた。それほどに静かだったのだ。
いまコイツは何を思っているのかと、おれは今まで考えたこともない事に思いを巡らせ始めた。短くなる煙草を楽しんでいる訳ではなさそうだ。けれどメシと女の事以外にコイツの頭の中にあるものなぞ想像が及ばない自分に、にわかに愕然とした。
おれはコイツの事を未だ何ひとつ知らない、その思いに突然襲われた。そして同時に、知りたいと思ったのだ。この男が今、何に囚われているのかを。
声をかけるか少しの間迷ったが、焦燥がおれを後押しした。何故ならコイツが今にも闇に掻き消えそうに見えて仕方なかったから。
「おい」
すると煙を纏った人影がこちらを向いた。無言のまま。
おれだと分かってはいるだろう。さすがにこの距離で気配を感じないはずはない。
けれどサンジは、それでも静かに黙っている。
「ぐる眉……なんだろ」
思わずそう言ってしまう。すると、少し微笑んだように見えた人影は、また視線を海に戻して呟いた。
「……よりによって、てめェかよ」
いつもの揶揄う口調ではないが、よりによって、とはどういう事かと引っかかった。他の奴ならどうだというのだ。
「おれで悪かったな」
そう言ってやると、ふ、と微かに笑ったサンジは、もたれていた手すりから少し離れて、しばらくまたジッとしていたが、そのうち手にしていた煙草をシュッと放った。小さな赤い火は弧を描いて海面へと消えた。
「お前が来たから、儀式おわり」
ポケットに両手を突っ込みながら、殊更軽くサンジはそう言った。
「儀式?」
「ああ、おれのね。お前にゃ関係ねェけどよ」
関係ねェと言われてチクリと胸が痛んだ。
「……そりゃ邪魔して悪かったな」
「いや別に、悪かねェけど。あんまお前には見られたくねェっつうか、さ」
濁った言葉尻を残してサンジはまた沈黙した。いつものコイツなら浴びせてくる揶揄いの言葉もつっかかる様子もまるで無い。むしろ静かな無言にほんの少し寂しさが滲む気がしてならない。
もしかするとコイツは、過去からデカい荷物を持って来ちまったのではないだろうか。それを誰にも言わずひっそりと抱えて、時折こうして向き合っているに違いない、そう思った。
おれの前では決して見せたことのない、おれの知らない何かに思いを馳せる姿は、不覚にも胸が焼ける奇妙な感覚を呼んだ。けれどそれはおそらく、本人の抱える必要のない『重さ』なのかもしれないという、確信めいたものもあった。
思うのはきっと、自分のせいで助けられなかった誰かの事。
「……自惚れんな」
「ああ? ンだと?」
「てめェは、てめェが思うほど重要人物じゃねェって言ってんだ。ましてや万能のヒーローでもねェ。一人残らず救うなんてのは出来やしねェ」
「……」
目を見開きサンジはおれを見つめて、しみじみとした様子で言った。
「……てめェ、エスパーか?」
「えすぱー? なんだそれァ」
「はッ、お前にそんなこと言われるたあ思わなかった」
「……」
「……なるほどおれは、おれ自身が求めるほどに強くはねェ、そのせいで……命を散らした奴らもいる。けどそう思うのも驕りかもしれねェな」
サンジは視線を足下に落とした。
その時おれは、たった今吐いた言葉が、コイツを傷つけたかもしれないと、そんな気がした。まだ言葉が足りない。
「……死んだ奴らは、生きてる奴らを責めたりしねェ、それァ摂理だ。てめェの手はそれをよく知ってるはずだろ」
「……」
サンジは、自らの手を広げてジッと見ていた。
闇に浮かぶその手は、おれとは違う料理人の手だ。命と命を繋ぐために働く手。それは、きっとヒーローよりも尊い手なのだろうと思う。
この男の背負う何かを果たして軽くする事が出来たのか、それはわからない。けれど、この男が背負う荷物を下ろそうとはしない事はわかっていた。そんな男だという事は、きっと、ずっと前から気づいていたのだ。それがコイツの弱点でもあり、そして同時に、おれを惹き寄せる凶器でもあるということも。
それがお前なんだろ。
そう言えればいいのかもしれない。
けれど今は、深い夜の凪に飲み込まれそうになるのを堪えるばかりだ。
「……邪魔したな」
引き返そうとした時、サンジがおれに向かってくっきりとした声で言った。
「なあ、もう少しここに居ろよ」
凪の終わりを知らせるように、柔らかな風がおれとぐる眉の間をふるりと通り抜けていった。