航海薄明(連載)

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2.ある男


 時刻は、夜半を過ぎていた。
 台所の片付けを終わらせ、レシピのメモを記し終わって、サンジはポケットから煙草を一本取り出した。火を点けて、煙を肺に深く吸い込み、天井にむかって一気に吐き出す。長椅子の方を見ると、ゾロは上半身裸のまま両腕を頭にやり、すやすやと寝息を立てている。よくそんな寒々しい格好で寝られるもんだ、とサンジは思うが、コイツはおそらく寝る場所を選ぶ。いまここで寝入っているならそれはおれを警戒していないからなのだろう。そう思うと、ふと、腹の中がむず痒くなってくる。
 随分前から、そうなのだ。
 コイツは他人に対して厳しい警戒心の持ち主だが、対して身内には甘いところがある。
 おれを本物だと信じているのだろう。そして、本物は自分に手出しはするはずがないと、信じているに違いないのだ。
「何か」あったおれを斬れなかったのも、コイツの甘さだと思った。
 少なくとも、おれはコイツにとっての「身内」に属しているらしい。そう思うと口元が綻んでしまう。あれだけ日々いがみ合っているというのに。コイツがおれを身内と認めているという事実に、心なしか愉快な気分さえするのだ。この船に共に乗って来た同じクルーなら当然のことであるのに、サンジにとっては特別に稀有な事のように思えるのだった。
 とりわけこの男の場合には。
 寝入っているゾロに、ストックされている台所用のタオルを持って近づいた。そっと、呼吸で上下している腹の上にタオルをかけて、瞼の閉じられた剣士の寝顔を見つめた。端正とも言える、バランスの取れた顔立ち。いつも日頃見慣れているはずなのに、今日は一際整って見えるのは魔が差したせいだろうか。
 そっと、指でゾロのほおに触れてみた。張りのある肌はほんのりと湿っていて、わずかに開いた唇から規則的な息が漏れている。
 ――この男は今、何の夢を見ているだろう。決して進入することのできないゾロの頭の中に、おれは住んでいるのだろうか。どんなふうに? 
 サンジは、そっと親指をゾロの唇の縁に移動させてみた。柔らかな薄い皮膚が指の腹に触れ、ふと慄きが走る。
 ゾロの唇に無防備に触れるなんて、おれは一体何をしているんだ?コイツはどう見ても立派な雄で、剣士で、その唇は決して誰かの……まかり間違っても、おれの劣情に触れるためのものじゃないはずだ。そう思っても、頭の反対側で同時に浮かんだ衝動にサンジは狼狽した。この柔らかなものの内側を知りたいという衝動。
 
 その時だ。

 足音もなく、突然キッチンの扉が開いた。瞬時に振り向いたサンジは目を見開いて固まった。
 そこに、紛れもない「おれ」が居た。
 金髪に、右目を髪に隠して、髭をより濃く蓄えた、黒いスーツの男が立っている。
「ッ……、」
 実際に対峙してみると声も出せない。「おれ」だというのに鏡に映るおれではないのだ。明らかに、時が進んでいる世界の男がそこにいることに不気味な戦慄が走った。
 ゾロは、寝息を立てたままだ。
「よう……元気か、おれ」
 その男は不敵な笑みを湛え、サンジに向かってそう言った。
「……お前……おれなのか……? ど、どこから来やがった」
「それは知る必要はねェ」
 不思議なことに、ゾロは全く起きる気配もなく寝入っている。おかしい、とサンジは思った。赤の他人の気配に、コイツが即座に目を覚さないはずはない。
「そいつが起きねェのが不思議か? 無理もねェ。けどな、コイツが身内には甘ェのは、もう気付いてんだろ? お前も」
「どういう、ことだ」
「来いよ。ここじゃあそのうち眠り姫を起こしちまう」
 その男は、クイと顎をしゃくってサンジを外へ出ろと促した。ゾロはおそらく、意図的に眠らされているようだ。そしてコイツは、サシでおれとやろうと言うのか。
 サンジは、先に扉の向こうに出ていく男の後を追って甲板の裏手に出た。
「……てめェの目的を言え」
「目的? はッ……知らねェ方がいいこともある、ってだけ言っとくぜ」
「ふざけんなよ……目的も知らされず、はいそうですかって自分の偽物とやり合う馬鹿がいるかよ! てめェ、舐めてんじゃねェぞ」
「そう、っか。ゾロに話を聞いたか。じゃ、忠告がてら先に教えといてやる。てめェはな、おれの過去だ」
「な……?」
 男は、両手をポケットに突っ込み、少し首を傾げてサンジを覗き込むように見つめた。
「おれはてめェだ。そして、てめェの四年後のおれだ」
「ど、どういう事だ?」
「んで、おれはてめェを」
 その途端、男の鋭い蹴りがサンジの顔面をすんでのところで掠めた。
「消しに来たんだよ」
 
 
 ◇
 
 
 目を開けると、天井にぶら下がるオレンジ色の灯りが目に飛び込んできた。
 何度か瞬き、ふとキッチンの方に目をやると、いつもの主がそこには居ない。
「ん……あのアホは、寝床にでも行ったのか……?」
 ひと伸びして、ふと湿った下半身に気づいたゾロは、着替えを半分サボった事を思い出し、男部屋に戻ろうと立ち上がったその瞬間、鋭い気配が全身を雷のように貫いた。一つは、サンジだ。そして同じ色をしたもう一つの気配は、裂けるような痛みをゾロに与えてきた。間違いない、あの男のものだ。
「あいつ……! 来やがったか」
 ゾロは扉を睨むと、次の瞬間に猛然と外へ飛び出した。

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