航海薄明(連載)

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またおかしなことをほざき出した、とサンジは思ったが、コイツがふざけてこんなことを言う奴ではないことはよく知っている。
「おれじゃねえがおれ? 何言ってんだてめェ」
「別人じゃねェ。なぜかそう思った。あいつはどこかからやってきた『てめェ』だ。おれには分かる」
「……っ、お前に何が分かるんだよ! 元におれ自身はここに居るじゃねェか! おれが本物だ、偽のおれのことなんかほっとけ」
「そう思ったが、そうはいかねェ」
「は?」
「あいつは「何かあった」てめェだからだ。確かに本物のてめェはおれを本気で襲うような無駄なマネはしねえだろうし、ましてや自分を殺そうなんてのは……いや」
 ゾロは急に目を細めて、おれの肩越しに何処か遠くに目をやってしばらく黙り、そして静かな低音で呟いた。
「……やりかねねェな……やっぱてめェだ、あれは」
「や、やりかねねェって何だよ!」
「何があったか知らねェがよ」
 そう言いながら、ゾロはキッチンに置いてあった手拭きタオルを手に取ると、無造作に頭にかぶりガシガシと両手で拭った。
「……風呂行って来いよ」
「いや、ここで寝る」
「はあ? いやここキッチン。寝床は下。分かるか? マリモヘッド」
「てめェが寝るまでここで寝る」
「……おい、偽のおれが来るのを案じてるんならな、余計な世話だぜ。おれの蹴りを舐めてんじゃねェぞ。一人で十分だ」
「そんなんじゃねェ、念のためだ」
 何の念のためだ、と言いかけたがやめにした。この男なりに海に消えた奴の再来を気にかけているに違いないが、どうにも居心地がよろしくない。コイツと二人きりになる時は決まって感じる居心地の悪さをどうにかしたい、とサンジはいつも思っていた。それは決して嫌悪ではないことはすでに分かっていたのだったが、では何かと己の深層を追求しても、ぼやけた輪郭が見えるばかりだった。その輪郭は、じんわりと胸を侵食してゆく宿痾のようなものにすら思えた。それがどんな形のものなのか、はっきりと見えてくるのがそう遠くないような予感も、あった。
「とにかく、風呂入らねェならせめて着替えろ。ボトボトだろそのままじゃ、風邪ひいちまうぞ」
 ゾロは閉じた目を薄く開けてちらりとサンジの方を見遣った。
「じゃあ、その服貸せ」
「……マリモ君、これは、おれの服なの。てめェのだっせーTシャツと腹巻きとは、訳が違ェんだよ。着る人を選ぶんでな」
「ケッ」
 しょうがねえなと言わんばかりにゆるりと立ち上がったゾロは、おもむろに自分の着ているTシャツをガバリと脱ぎ捨て、続けて湿った腹巻きを頭から抜き取るとそれを手にツカツカとキッチンのシンクへとやって来た。
「ば、っかやろ、ここで絞るのかよ」
「いいだろ別に」
 呆気に取られているサンジの横をすり抜けて、ゾロはシンクで腹巻きを絞り上げると、空いた台の上に雑に広げて置いた。ほんのりと潮の香りが漂う。
「お前、ンなもんここで干すなって」
「しゃあねェだろ、他に置くとこねェじゃねェか」
「あのなあ……」
 神聖なるキッチンの清潔な流し台に、んな不潔なマリモ臭ェモンを置くなと、普段なら怒鳴っているはずなのだが、どうしても今夜はそんなモードに切り替わらない。それどころか、上半身を惜しげもなく露わにしてタオルを手に体を拭うさまを、じっと目で追っている自分が不思議でならない。腕を動かすのにつれて動く肩の肩甲骨、その傷のない背中。思えばここまで太刀傷のない剣士の背中というものをまじまじと見つめたのは初めての事だ。天井の淡いオレンジ色のランプがほんのりと肌に反射して、滑らかな皮膚がより一層滑らかに、まるで彫刻のように、均整の取れた美が無造作に晒されていた。おれには生涯触れることのない、触れることのできない背中なのだ、と、そんな事を思った。
 黙っているサンジを不審に思ったのか、ゾロが振り向いた。
「なんだ」
「……、別に。てめェ、それでいいのかよ、下の着替えは」
「取りに行くのがめんどくせえ」
「は、てめェがいいならいいがよ、気持ち悪くねェの」
「取りに行ってる間にあいつが戻って来るかも知れねェだろ」
 ふん、とドヤ顔を寄越してから、ゾロは長椅子にゴロリと陣取り、ふああと大あくびを一つしてから両腕を頭の後ろに組んで目を閉じた。
 やはりコイツの警戒心は人一倍だ。けれどそれだけだろうか。ふと浮かんだ曖昧な疑問を振り切ろうとサンジは頭を振った。
 

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