海賊パラレルサンゾロ。ある日の夜、甲板からキッチンにやってきたゾロは全身ずぶ濡れだった。問いただすもいつになく…
1.ずぶ濡れの男
珍しく平穏な航海日和だった。
ただし、がんとした雨雲が天を覆っていて、航海士によるとしばらくは細く長く、雨が降ったり止んだりの天候が続くらしかった。
クルー達が寝静まった頃合いの、夜半前。
振り出しそうな気配こそ濃厚なものの、まだ昼間は曇りを保っていたのでサンジは窓の外に気を留めるでもなく、キッチンで明日の食事の下拵えに没頭していた。そう。少し試したいレシピもあり、先に立ち寄った島で入手した珍しい食材も幾つかあったので、好奇心を刺激されてもいたのだ。
小一時間も経った頃だろうか。ガチャリ、とキッチンのドアが開いた音にサンジは振り返ってみた。
その入り口をくぐってきたのは、全身びしょ濡れの男、ゾロだ。
「……ど、どうしたそのカッコは?」
いつの間にそんな土砂降りになっていたのかと、窓の外を目を凝らして覗いてみる。しかし、雨が降っている気配はなく、風の音もない。むしろほぼ凪と言っていい。ゾロは、質問に答えずにボトボトと水滴を床に垂らしながらサンジの方へ歩み寄ってきた。見ると、身なりはいつもの普段着のままだ。ということは、つまり。
「てめェ! まさかとは思うが……こんな夜中に泳いでたんじゃねェだろうな」
ゾロは黙ったまま、険しい表情でひたとサンジを見つめている。
「おい何とか言え。んな濡れネズミのまんま部屋に入って来んなよ。さっさとそのまま風呂場へ……」
しっしと手を振ってゾロを部屋から追い出す仕草をしてみてもゾロはその場を動かない。普段ならおれは犬かクソコック、などといつもの歪み合いがおっぱじまるはずなのだ。これは、よほどの何かあったかとサンジは察した。
「おい……何かあったのか」
「……」
ゾロはまだ黙っていた。しかし、仄かにためらいの表情が浮かんでいる。
「おいって! 黙ってちゃ分からねェだろうが」
すると突然、ゾロはズカズカとサンジに近寄って来たかと思うと、グイとその襟元のシャツを掴んで強く引いたのだ。
「ッ、? 何、しやがる!」
「……」
黙ったままゾロは、無遠慮にサンジの目を覗き込むと、しばらく眉間の皺を深めていた。咄嗟に言葉も出ず、サンジはただ数センチ先のゾロの瞳を見つめ返すしか術がない。緑色をした前髪から流れ出た雫が、ゾロの額から眉を超えて、その下の睫毛の先に溜まる。ぱた、と一度瞬かれた瞼からそれはポツンと頬を伝ってサンジの鼻先に落ちた。ギギ……と僅かに船が揺れて、床板が軋んだ。その音にゾロは我に返ったのか、不意に掴まれていた首元が解放された。ほ、と息をつくと手を離したゾロは頭から額に滴り落ちる水滴をグイと腕で拭って、視線を外した。
「なあ、何があった……言えよ」
「……あいつが消えた」
「え?」
コイツの言葉が足りないのは今に始まった事ではない。しかし、突然の代名詞は、そりゃあないだろう。サンジは呆れて尋ねた。
「あいつ? 誰だよあいつって」
「知らねェ」
「は? 知らねェって、敵襲じゃねェのかよ」
一体どういう事だ。そう言えば、見たところゾロは慌てても急いでもいない。本当に襲なら夜中だろうがクルー全員を今すぐ呼び起こさなければならないだろう。何より、レディたちに何かあったら取り返しがつかない。
「おい、敵襲ならマイクで」
「敵じゃねェ」
「ああ? なら誰なんだよそいつは?」
次第に苛立ってきたサンジは、思わず声を荒げた。
「……」
違和感があった。ゾロの歯切れが悪すぎるのだ。いつものように声を荒げても同じように荒っぽく返ってくるゾロの返事はここになかった。それに、だ。
「……知らねェ奴にあいつ呼ばわりする奴だったか、てめェ」
ゾロについては理解し難いところも賛同し難いところも多々あった。けれど、元々赤の他人には警戒心が強い野郎なことは知っていたつもりだ。この船に二番目に乗り込んでいたクルーとして、あの大雑把な船長を牽制するにも必要な資質だと常日頃から思っていたのだ。そこについては渋々ながらサンジは認めているつもりだった。その男が、知らない他人を「あいつ」と呼ぶのは不可解としか言いようがない。それに不可解なだけではなかった。サンジにとって、ゾロがこの船の一味以外に「あいつ」と呼ぶ奴が存在することに奇妙な感覚が芽生えていたのだ。
奇妙、というか、不快、と言おうか。
「言えよ、どんな野郎だそいつァ」
「……おれを殺そうとした」
「何……?」
「殺すつもりで襲って来やがった、だから斬ってやろうとした」
「おい、そりゃ敵襲っていうんじゃねェのか? で、『斬ってやろうと』してどうした? まさか逃がしたのか」
「違ェ。消えた」
「消えた?」
「海に落ちた。だからあいつを追っておれも海に飛び込んだ。けどそのまま消えちまって見つからなかった」
またもあいつ、だ。どうにも腑に落ちない。サンジは畳み掛けるように尋ねた。
「けど、てめェが敵を仕留め損ねるとは思えねェんだけどよ。なんでそいつは急に海に落ちたんだ」
「それは……」
ゾロは言い澱んで、その先の口をつぐんだ。
「何だよ、言え」
「……」
またも無言だ。この歯切れの悪さは一体なんだ。どうにも、いつものゾロらしくねェ。サンジは苛立ちを隠さずに、先を促した。
「言えよ!」
我知らず大きな声をあげてしまったと気づいたが、サンジは引かなかった。コイツに一体何が起こったのか知りたかった。そしてその相手が何者なのか。
「分からねェ」
「はァ? 何が」
「なんで海に落ちたのか分からねェんだ。……けど」
ふと、何かを思い出したようにゾロの表情が変わった。
「落ちる瞬間、あいつはおれを見て笑った」
「は……?」
笑っただと? 一体なぜ? サンジの頭に疑問符ばかりが飛び交う。そもそも何故、コイツは自分を襲う敵を瞬殺しなかった?
「それも悲しげにな」
「悲しげ……? そいつはてめェを殺そうとしてたんだろう? 意味が分からねェ」
「あいつはてめェを狙ってたんだ、違いねェ」
「はァ? ちょっ……、待て待て、いや、さっきてめェはそいつが『襲ってきた』って言ったじゃねェか! なんでおれが出てくるんだ」
「……何でだか知らねェが、あいつの殺意は最初てめェに向かってたんだ。たまたまそこにおれが居合わせて、おれを襲って来やがったんだろ」
「な……なんで、おれって分かる」
「分からァ」
そこは、キッパリとゾロは断言した。その野郎がおれを襲おうとした理由も謎だが、それをコイツが即座に察知したってことに、どうにも面映ゆい心地が拭えない。正体不明なゾロの体験に巻き込まれて、おれ自身も混乱しているに違いない。
「つまり、なんだ? そいつはわざわざ何処かから海を渡っておれを殺しに来たってことか? ルフィや、この船自体が標的じゃなくか? そこまで個人的な恨みを買った記憶はねェけどなァおれは」
「……」
「で……そいつはてめェと鉢合わせしたんでてめェを殺そうとした、と」
「ああ……けどあいつは、突然自分から海に落ちた」
「自分から?」
するとゾロは意を決したように一息に言った。
「そいつは、てめェの顔をしてたんだ」
「え…………?」
サンジは言葉を失い、思わずゾロの顔を凝視した。頭が追いついていかない。コイツの言葉は事実を言っているのか。だとしてもあまりにも奇妙な話ばかりだ。極め付けがそれか、とサンジは半ば頭を抱えて呻いた。
「なあ……てめェ、まさか寝ぼけちゃいねェか」
「おれは嘘をついちゃいねェ、事実を言ってる。あれはてめェの姿をしてた」
「……この広い海に、おれに似た野郎が一人や二人いるかも知れねェが、たまたまそいつがおれを狙ってこの船にやって来るなんて偶然はそうそうねェよな……」
思うところがあるのか、ゾロは再び沈黙した。
なるほど敵がおれの顔をしてりゃあ、「あいつ」呼びにもなるかも知れねェ。それで鬼の形相でここに確認しに来たって訳だ。ホンモノのおれが居るのかどうか。
けど、再び偽のおれがここを襲いに来ることは予想できる。何しろ、狙った「おれ」の元にはまだ現れてないわけだ。ゾロにツラが割れたとしたら、今度来るときはおれが一人の時ってことだろう、そこまで考えを巡らせていると、突然ゾロが思考に割り込んできた。
「あいつはてめェじゃねェが、てめェだった」
「あ?」