【歳の差シリーズ】天の川渡り (R18)

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如月夜話

2023年バレンタインデーに寄せて。
同棲して初めてのバレンタインデーを迎えた二人を書きました。


 家の鍵を忘れてきたことに気が付いたのは、仕事が上がった直後だった。

 よりによってこんな日に。珍しく今日はシフト通りの時間にきっかり終わって、早めに帰宅ができるはずだったのにだ。
「しまったな……あいつ、今日は明日の試合の居残り練で遅くなるって言ってたしな」
 店の裏口から一歩外に踏み出せば、キンキンに冷えた空気が頬を叩く。空気は澄んでいるが、正しく真冬の容赦ない冷え込みに思わずジャケットのジップを顎まで上げながら、とりあえずの対策を考える。けれど如月の半ば、小一時間でも外にいるのはさすがに厳しい。都合の良い近場に空いているカフェらしきものも思いつかない。
「仕方ねえ、あいつの道場まで行くか」
 連絡しておこうとスマホをいったん取り出して、やめた。きっと今頃はまさに練習の真っ最中に違いない。下手な着信で気を散らせたくはなかった。それに出入り口で待っていればちょっとしたサプライズになりそうだと思い、秘密裡に行くことにする。
 
 ゾロの道場は自分の勤める店よりも自宅に近い。最寄りの地下鉄の駅からも確かすぐだ。
 駅に着いて地上への階段を上りきったところで出口のひんやりとした風を受けていると、背中と肘に軽く衝撃が走った。
 「あ、失礼……」
 後ろから走ってきた誰かがぶつかっていったのだ。長い黒髪を後ろでポニーテールにして、モコモコした白いマフラーを首にたっぷりと巻いた若いレディだった。後ろ姿だけでもとてつもなく麗しい。レディはこちらへ振り返ることなくそのまま一目散に走っていった。おれが今から向かう方角へと。
 
 ゾロのいる道場の正面玄関はもう門が閉ざされていた。中の明かりは煌々とついていて、時折ドシンと響く足音や、ヤーという掛け声がかすかに聞こえてくる。以前に一度来た時の記憶を頼りに、路地を回って裏の方へと向かうと裏門は鉄の格子戸が開いており、この時間でも自由に出入りできそうだった。そろりと戸をすり抜けて中へ入り、道場の建物へと向かう。すると、出入り口から奥まったところで何か話し声がするので戸の隙間から覗いてみれば、人影が二人見える。
 そこにいたのはゾロと、そして、先ほどぶつかったポニーテールのレディだった。
 予想外の先客に、思わず息をひそめて見つめる。
 ポニーテールのレディは、なにやら小さな紙袋をゾロに渡そうとした。ゾロは小さく首を振り、手で押し返していったん受け取るのを断った様子だが、何度もペコペコと頭を下げて紙袋を渡そうとするレディに根負けしてか、とうとうそれを受け取ったようだった。彼女は最後にまた深々と頭を下げてから、跳ねるように向きを変えてこちらに向かってきたのでおれは思わず柱の陰に隠れた。隠れる必要があったのかは、わからない。彼女は来た時と同じようにまっすぐに、ウサギのように走って裏門から外へ出て行った。

 おれは、うかつだった。今日という日が、自分だけでなく、世界中の人間にとって聖なる日だということを、この瞬間に思い出したのだ。

 なんてキラキラした可愛い女の子だったろう。すれ違い様にちらりと見えた少し潤んだ大きな瞳。ピンク色に染まった頬。あどけなさも少し残る、おそらく歳のころも、十代後半か二十代前半あたり。ゾロと同じ年代の子に違いない。同じ大学の女子だろうか。それとも奴の熱心なファン?
 あんな子なら、ゾロのそばにいても不釣り合いではない。いやむしろ、お似合いだろう。ピッタリすぎると思った。あいつのように精悍な若い男には一人や二人、いやいくらでも寄ってくるレディはいるだろう、考えずとも当たり前のことなのだ。
 普通なら、あいつの隣にはあんなレディが——
 そこまで考えて、無理やり思考を止めた。裏門を出て、さっき来たばかりの道を駅へと戻る。ゆっくりと。まだもう少し奴の居残り練習は続くだろう。ゆっくりと歩こう。どうだ、もうすっかり冬の星が宙に満ちていやがる。おれの歩く早さとあいつの歩く早さが違うことなんて、とっくに分かっていたはずじゃねェか。

 静かな冷えた帰り道に、自分の足音の連なりだけがやけに固く耳に響いた。

「あんた……何やってんだ」
 
 マンションのドアの前にようやくゾロが現れたのは、それから小一時間ほど後だった。
「いよぅ……鍵、忘れちまってよ、ヘックショッ」
「はあ? 今までそこで待ってたのかよ? ばっかじゃねェのか?」
「おいおい、冬空に冷え切ったおっさんに対してその言いぐさはあんまりじゃねェか」
「なんで連絡しなかったんだよ、あんたの方が先に終わったんだろ」
「なんでってお前……おれァ明日に向けて絶賛鍛錬中のてめェの邪魔するほど野暮な男じゃねェよ」
「んなこと言ってる場合かよ、鍵渡すくらい一瞬だろ」
 ぶつくさ言いながらドアを開け、先に中へ入ってゆく背中をつい見つめる。バカが付くほど真面目に鍛錬を続けている成果が、セーターの上からもわかるほど盛り上がった筋肉に見て取れる。出会った頃よりずっと分厚くなった、ふとそう思って目を細めた。
 練習着を洗濯機に放り込んで風呂場へと消えてゆく広い背中を見送ってから、キッチンの冷蔵庫から昨夜仕込んでおいたものを取り出した。皿をテーブルへセットし、シャワーの音が聞こえている合間に作り込んで冷蔵していたソースを小鍋に移して火にかける。甘酸っぱいオレンジリキュールの香りがつんと鼻を刺激してきた。
 こんなおれが、こんな日に誰かひとりのためにスイーツを作ってるなんてな。
 ホストクラブにいたころは、毎年この日は来る客来る客すべてから、ひっきりなしにリボンをかけた小箱や酒瓶を受け取って店のテーブルが山積みになっていたもんだ。その数を店内で競ってボーナスが配られる趣向だった。おれはいつもダントツの一位で、調子に乗って鼻高々だった。レディ達の愛だからとひとつ残らず持って帰れば同僚たちの羨望と妬みの声を浴び、満ち足りた「気」になっていた。そんな事がもう遠い遠い昔に思える。あの大量のチョコレートの箱の中のどれにも、おれの欲しいものは入っていなかったというのだから。
 今はもう、おれには過ぎた幸せを手にしてしまった。これ以上何かを望めば罰が当たるだろう。例えば、あいつからの「好き」という言葉を聞いてみたいだとか。際限なく欲深くなっていく自分を閉じ込めるうまい方法がどこかにあるだろうか。

「おい、あんたもさっさと風呂に……」
 頭を拭きながらキッチンに入ってきたゾロは、テーブルの上の品に目を止めた。
「なんだこれ」
「おれ特製のチョコレートケーキ、ゾロアレンジ。食ってくれよ」
「え……」
 ゾロは心底驚いたという風に目を見開いてしばらく皿を見つめた。
「甘いの苦手なのは知ってるぜ、だからゾロアレンジ」
 ふぅん、と唸って、ゾロは椅子を引いた。座ってから両手をパンッ、と合わせて小さくいただきます、と呟いてから、フォークに刺さったケーキを口に運び大きくかぶりついた。その逐一の動作ひとつひとつをついじっと見つめていたおれに「見過ぎ」と言い置いて、ゾロは最後まで無言で食べつくし、また手を合わせてごちそうさん、と囁いた。
「どう」
「……美味ェ」
 ポツリと、それだけを言うのが逆に本当らしい。
 じんわりと胸の中が温かくなる。その言葉ひとつで、蝶のように舞い上がってしまうのをこの無骨な野郎は分かっているのだろうか。
「好きだよ、ゾロ」
「ッ、……」
「食ってくれて、ありがとな」
 本心からの言葉が、思わず口をついて出た。それを聞いてゾロの頬がみるみる赤くなってゆく。そんな時の例に漏れず、ゾロはおれから目を逸らして視点の遣り場を探そうとする。
「……そういや、なんかもらった」
 そう言いながら、ゾロは床に置かれたカバンからがさがさと紙袋を取り出して、無造作にそれをテーブルの上に置いて見せた。
「断ったけど、しつこかったからもらっちまった。けどおれは食わねェから。それと」
 さっきの、ポニーテールの彼女が渡した紙袋だった。
 にわかに血が逆流し始める。そんな事で、大人げないと分かっていた。実に大人げないと。けれど心拍数が上がってゆくのがわかる。
 大きめにかけられた赤いリボン。その隙間には白地のカードが挟まっていて、ピンク色のカリグラフィーの文字が読み取れた。『I Love You』そう書いてある。
 おそらくゾロは受け取ってから今まで、そのカードを開いて読みもしていないだろう。
「なあゾロ」
 声が上ずりかけたが、なんとか絞り出す。
「なんだよ」
「これ、女の子からもらったんだろ?」
「ああ」
「ちゃんと開けて、そのカードも見てみろ」
「ああ? 別にカードなんてどうでもいい」
「いいから見ろ!」
 声を荒げるつもりなどなかった。
 あまりにもガキ臭い、そう思っても、喉から勝手に声が噴き出す。てのひらにジワリと汗が滲んだ。
「ッ、なんだよ? なんであんたが怒るんだ」
「……あの子は、てめェにわざわざ渡しに来たんだろ、本命チョコを」
「あ? ……渡しに来た、って、なんで知って」
「本命なんだろうよ、てめェが。だからなんとしても受け取ってほしかったんだろ」
「なんであんたにそんなことわかる」
「わかるさ、バカ。……わかるに決まってんだろ。おれが何回今日の日を経てきたと思ってやがる」
「……そりゃ、あんたはさぞたくさん貰ってきたんだろうけど」
 言い捨てるようにそう言って、ふいとゾロは横を向いた。
「ああ貰ってきたさ。だから言ってんだ。本命のプレゼントはレディの愛そのものだ、カードくらい……読んでやれ」
 ポニーテールのレディが、息を切らせて走っていた映像が頭の中に甦る。誰かにぶつかっても気にも留めないほど、あの時彼女の頭の中はきっと、お前でいっぱいだったんだろう。受け取ってくれるか、嫌がられないか心配でたまらなかっただろう、それでも決死の思いでお前に渡し終わった彼女の勇気がおれには眩しかった。痛いほど。
 しばらく横を向いていたゾロはおれを一瞥した後、渋々という風にカードを手に取り、開いて中を見た。数行、何か書いてあるらしい。それを読み終わってからゾロはまたカードを静かに紙袋に戻して、言った。
「……読んだ。これでいいんだろ」
「ああ、それでいい。彼女の気持ち、ちょっとはてめェに届いたか?」
 するとゾロは眉間に皺を寄せ、見るからに凶悪な睨みをおれに突き刺してきた。
「あんたはそんな見ず知らずの女になんでそこまで同情すんだ? いい加減にしろ!」
 突然気色ばんで来たゾロに返す言葉を失って、おれはただゾロを見つめた。
「知らねェ女のキモチが分かるくせに、あんたは、……」
「あ?」
「…………ッ、もういい」
 ゾロは立ち上がると、くるりと踵を返して、床のカバンを拾うと中から別の包みを取り出し、テーブルにトンとそれを置いた。茶色く、小さな小箱。どこかで見た事がある、高級チョコレート専門店の包み紙だ。
「おいゾロ、これ……」
「あんたにやる」
「え?」
 ——おれのために? まさか、買ってきたのか? 行き慣れない店に行ってゾロがこれを。
 ゾロは寝室に通じるドアを開け、そこで背中を見せたまま立ち止まった。
 
「好きだ」

 突然聞こえたその言葉が、一瞬誰が発したのか分からなかった。
 長い、長い時間をかけてふらふらと、揺らめくように、その言葉はおれの耳にたどり着いた。
 それでもまだ現実の声と思えず、
「え」
 と、思わず呟いてしまった。
「あんたがいつもいつも、先を越しておれに言うから……ッ、おれだって」
「……え」
「あんたが好きだ、二度と言わねェ! ケーキ美味かった! わかったか」
 背中を向けたままそう叫んだゾロを幻のように何度も見つめた。でも何度見てもそこに立っているのはやっぱりゾロで、夢でも幻でもなく、霞でもなく、おれがただひとり欲しいと渇望するその男だった。
 顔が熱くてたまらない。きっと今おれはバカみたいに熟れた真っ赤な色をしているに違いない。おまけに、両目からも鼻からも液体が流れてきて仕方ない。ずびずびと鼻をすする音にギョッとしたのか、ようやくゾロがこちらを振り向いた。
「あ、あんた、何泣いてんだ」
「う、ヴヴ、だ、だってよぉ、うう、ゾロが、初めて、好きって、おれに、」
「……泣くことねェだろが、バカか」
「うぐっ、ズビッ、バカとはなんだよ、おれァ、ヴヴヴ、嬉しくて、ズビビビビビッ」
「……ッたく、世話の焼けるおっさんだな」
 ゾロから乱暴にティッシュを鼻に突き付けられ、涙と鼻水にまみれてぐしゃぐしゃになった顔をガサツに拭き取られて、情けないにもほどがあるよれよれのおれの額をゾロは憮然としたツラで自分の額にぶつけると、次の瞬間、この世の天使かと見まごう笑顔でくしゃりと笑った。

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