春、近し
「天の川渡り」の後日談、同居を始めたふたりの話。
「さッみィ~~」
ドアの開く音と同時にいつもの声が帰ってきた。
洗面所で手を洗っていたので、濡れた手をタオルで拭きながら玄関のほうに首を伸ばす。鼻の頭を赤くして、手の甲を擦りながら帰宅したサンジが廊下を進んでくる。おれの目の前に到達するやいなや、即座に頬に向けて延ばされた両手の平を瞬時に首を曲げて避け、そのまま両手首を掴んで背負い投げの体勢をとる。腕を強く引き投げる直前の体勢でぴたりと止めると、
「うおーいギブ! ギブギブ! 離せってゾロ!」
と肩の上から叫ぶ声に留飲を下げゆっくりと手を放すと、お手上げのようにサンジは両手を上げた。
「相変わらず、熱烈大歓迎じゃねえの、マリモちゃんよう? そんなに寂しかった?」
「ちゃんって言うな、っつってんだろ。いいから早くその氷みてェな手、洗ってこい」
「連れねェの。たまにはあっためさせてくれよ」
「おれの首を使うな、湯であっためろ」
「いいじゃねェかその前に。あ~一日労働で疲れちまったなぁ」
甘い息を吐きながら肩口に顎を乗せてくるのは、コイツの常とう手段だ。
「後にしろバカ」
肘鉄をサンジの鳩尾に一発くらわし、台所へ戻って鍋に火を点ける。といっても中身はサンジが朝に用意していったもので、火を点けるだけであとは旨い鍋が出来上がるのを待つだけでいい。
サンジは勤め先のレストランの賄の残りだと言って、持って帰ったタッパーの中身を皿に盛り付け始めた。その間におれは、冷蔵庫からキンキンに冷えたビールを二本出してテーブルに置く。こんな寒い日にアツアツの鍋と冷えたビールは最高の取り合わせだ。もっとも、自分が帰って来てからすでに一本空けているが。
「いただきます」
手を合わせ、湯気の立ち昇る鍋に箸を入れて少しだけかき混ぜる。湯気の向こうの目線が鍋を通り越して自分に向かっていることに、今だに得体のしれないむず痒さが残る。
「……最近遅ぇな」
「そうなんだよな、だいぶメニューを任されてきたもんでよ。仕込みも後片付けもボリュームが増えちまってな。ま、当然のことだけどさ」
「揺るぎねェ自信だな」
「おれァ未来の名コック確実だからよ。なあ、ゾロ、そろそろ店に食いに来てくれてもいいんじゃねェの?」
サンジの再就職先であるレストランは、このマンションからそう遠くない場所で、歩いても30分はかからない距離にある。おれと、このおっさん――サンジは前のアパートから5駅ほど離れた2LDKのマンションでともに暮らすことになった。ホストをきっぱりやめてから、サンジは歓楽街へ寄り付くことがなくなり店とマンションのほぼ往復の毎日を送っている。まだ見習いだった時期は晩飯の時間には帰ってきたものの、最近では帰りの時間は夜中を過ぎることもざらだった。おれは道場に通いつつ、別の配達のバイトをしながら就職活動を続けている。
料理人を目指す、と宣言してサンジはその言葉通り、ストイックに店に通いつめ、料理本を買い込み、見たこともないほど真剣な目で台所に立ち、色々なレシピを試すようになった。驚いたことに、その度に食べさせられる試食はどれも参ってしまうほど美味いのだ。こんな才能を今までどこかに隠していたことに驚愕と、そして、ホストとして日の目を見ないまま終わらずに済んだことに心の底から安堵した。
ただ、しきりと店へ来いと誘うサンジの言葉にいまひとつ乗り切れないでいたのは事実だった。
「そのうちな」
「前もそう言ったろ。そのうちってのはいつだよ? なんだ、人見知りってわけでもあるまいし」
「……なんて紹介すんだよ、おれを」
「あ? そりゃ別に、同居人って言うさ。嘘じゃねェだろ? 特に誰も気にしねェよ」
「……」
黙っているおれをどう思ったのか、サンジは鍋をかいくぐっておれの目をのぞき込んできた。
「まさか恥ずかしいって? マリモくん」
「そんなんじゃねェ!」
つい、声を荒げてしまったことにハッとした。目を丸くして見つめている男からつい顔をそむける。
「……心の、準備ができたらな」
「へ? 心の、準備?」
「そのうちだ、いいだろ急ぐわけでもなし」
「まあ、おれも店も逃げねェからな。待ってるぜ」
そう言って、ゆるりと口角を上げる男を目の前に、おれはまた鍋を必死でつつく振りをした。
◇
まだ火照りの残るシーツの上。荒い息を整えているところへ、背中から回された両腕が胸筋をゆっくりと撫でさすってくる。密着している背中側の腹もまた、クライマックスの名残がまだ熱く呼吸とともに隆起を繰り返している。
「な……今度さ、船に乗りに行かねェ? ふたりでよ」
「船……?」
耳元でささやかれた言葉は半ば夢心地で、いまいち頭に入ってこない。
「店のマスターの知り合いがクルーザー出してくれんだよ。名目は釣りだけど、ちょっとしたクルージングで港の沖まで行ってくれんだと。お友達もひとりまでなら連れてきていいってさ。な?」
「おともだち……?」
「その知り合いさんは、たぶんカノジョを想定して言ってる」
耳元の唇が少しずらされ、耳朶にちゅ、と触れた。
「女がいると思われてんのか」
「さあ? おれは何も言ってねェけど。まあ見りゃモテるだろってことは分かんだろうなァ」
悪びれもせず、さらっとそういうことを言う男なのだ。
そんなことは今さらだ。この男の罪深いところは、自分に向かう好意の深さに気づかず安穏と受け取るところだと思っている。わかっていて受け入れている自分も自分なのだが。
「たまには海を見るのもいいってもんだろ? それによ、釣った魚は全部料理させてくれるっていうしな。手によりかけてやるから。な?」
「……いつだよ」
結局、約束をしてしまった。まるで餌に釣られた魚だ。まんまと誘いに乗ってしまう自分が悔しい。
んじゃ決まりってことで、などと軽く返した端から唇が背骨を伝ってくる。いつの間にか回された手は胸を下り腰を伝って太腿をやわらかく揉みしだき始めた。途端に全身が抵抗を失って男の前に甘く投げ出されてしまうのを、もちろん知っての卑怯な行為に今夜もまた為すすべもなかった。
船は確かに立派なもんだった。ヨットハーバーに停泊している数々の豪勢なクルーズ船の中でも、とりわけ大きくて目立っている。大きな旗まで立てているのだから、オーナーの目立ちたがりな趣味が伺えるってものだ。しかも旗には大きくドクロマークまで描かれている。
「海賊船かよ」
「ああいう趣味なんだろ、わりと派手好きな人みてェだからよ」
咥え煙草で、軽快な足取りで岸壁のほうへ歩く男の後ろを追って、目指す船へと向かった。
海風は柔らかく、春が近いことを頬に知らせてくれる。
「よお、サンジ! こっちこっち」
既に乗り込んで手を振っているのは、長めの白髪を後ろに縛った初老の男だ。
「ああ、お世話になります。こっちは同居人の……」
そう言ってサンジの手がわずかに腰に触れた。
「……ロロノアです。よろしく」
「おお、聞いてたよ。ずいぶんお若いねェ? まだ学生なんだっけ?」
「ええまあ。4年です」
自分で言って改めて気づく。おれと、おっさんとの歳の差について。こうもあからさまに驚かれるほどの差があるってことを。
「さあ乗って乗って。とりあえず、出航する前に自慢のリビングとバーカウンターをとくと見てくれよ」
ヨットハーバーを出て、船は徐々にスピードを上げて沖合へと向かっていた。
甲板の風はさほど冷たさはなく、生ぬるくさえある。今日は曇りと聞いていたが、実際には空は申し訳程度の雲しかない見事な晴天だ。
オーナーの男は出発前から自前のバーで酒を一杯ひっかけていた。その程度は水みたいなものだよと笑いながら悠々とクルーズ船を操っているが、あれは飲酒運転にはならないのだろうか。いやそんなことよりも、おれのことをいかにも若い同居人と驚いていた。まあ普通の反応なのだろう。『同居人』と伝えらえたことにほんの針の先ほどのひっかかりはあるが、それ以外に確かに言いようがない。
まさかこんな野郎が『恋人』なんて。きっとサンジも言えやしないだろうに。
そんなことを考えながら遠ざかってゆく岸壁をぼんやりと眺めていると、苦い煙の匂いが近づいてきた。ふう、と吐き出しながら隣に陣取って甲板の柵にもたれかかったサンジは、楽し気に咥えた煙草を上下に揺らしている。
「も少し沖の小さい無人島まで行って、そこでちょっくら釣りするんだってよ。しばらくクルージングだな」
「……」
「あれ? 何その仏頂面。楽しくねェ?」
「楽しくねえことはねェけど」
「けど? 何」
煙の匂いがさらに近づく。しかもいつの間にか、腰に手が回されベルトの縁をぎゅっと掴まれていた。
「ッ、オーナー、いるだろ」
「停泊までオーナーが操舵してっからよ……」
腰に回された腕に力が込められた。片腕で強く抱きすくめられると同時に、視界が消える。重なった唇は煙の味を纏いつつ、わずかに潮の味を与えてきた。しっとりと湿りを増す唇が角度を変え、さらに深められてゆく。
「……ん…………」
いつだって狡い。おれを何も考えられなくすることにこの男は腹が立つほど長けている。この世界におれとこの男のふたりきりしか居ない、そんな錯覚を起こさせることなど造作もない野郎だ。
時間の感覚が消えうせるほどの間、甘い企みを口内一杯に満たされて、自分がさっき何を思っていたかを忘れかける。そんなタイミングでまたこいつは言うのだ。
「……海の上のお前も、格別、美味ェな」
「ッ……、アホ、か」
手の甲でグイと唇を拭って見せるが、息のかかる距離からじっと見つめる男の目がやけに優し気で、またおれは焦点を失い仕方なく海面に目を移した。
もうすぐ目的の小島につくという頃。
大きな衝突音がして突如、船体が大きく斜めに揺れた。
「うわっ!」
「オーナー!? 大丈夫か!」
「やべえ! 悪い、何か岩場の暗礁に船底擦っちまった……」
見ると小島に連なって付近には小さな岩がいくつも海面から顔を出している。船体がそのうちの一つに衝突したらしい。
「まずいな。こりゃ船底に穴が開いたかもしれねえ……水音が聞こえんぞ」
「救援呼ぶか? オーナー」
「ああ、ダメだ、圏外だ! 無線は……だめだ、これもやられちまってる」
急激に傾き始めた船体を見て、オーナーは小島の横にある大きな岩に飛び移り、船を横付けして錨を下した。通信機器も浸水のために遮断され、おれとサンジを岩場に残してオーナーが一人、備え付けの小さなゴムボートを出して救援を請いに戻ることになった。
入り組んだ岩場に足を踏み入れると、ちょうど部屋一個分ほどの平らな草むらが見つかった。
「ここならかろうじて待ってられっかな」
「でけえ船も穴が開いちまったら、どうしようもねェんだな」
「不運だよなあ。オーナー、結構ショックだろうし申し訳ねぇな」
どこにも動きようがなく、おれとサンジは小さな小島でふたり、救援を待つことになった。
岩場の隙間から見えるゴムボートが小さくなってゆくのが見える。
「なあゾロ、お前さっき……」
見つめる蒼が、ふと真剣な色を浮かべていた。この色に見透かされるのは苦手だ。
「なんだよ」
「オーナーが驚いたの、気にしてんのか」
「べ、別に気になんかしてねェ」
「同居人って言ったことか?」
「……」
何を求めているのか、自分でもわからなかった。文字通りの言葉で紹介されることがなぜ不満なのか。そもそもおれは不満なのか。けれど確かにあるもどかしさに似た感情がずっと燻っていることを、上手く言葉にできる気がしなかった。
目の前の男は、第三者から見れば同居人なんだ。確かに。
「ゾロ」
顎を取られて振り向かされる。触れた指は風に晒されてほんのりと冷えていた。
「前にも言ったろ。彦星はマジメなんだ」
鼻先に、ささやくような声が舞う。
「だからお前の望むこと、全部与えてやりてェんだよ」
少しさがった眉尻、おれの目を映した蒼い瞳孔が、嘘でないことは今はわかる。
急に突き上げるような獰猛な衝動が沸いた。この男の与えるもの全て、それ以上のものを食らいつくしてボロボロにしてやりたい。我知らずそれは強い衝動だった。おれはサンジの胸倉を掴むと力を込めて草で覆われた岩場に叩きつけ、上体を跨いで貼り付けるように腕を固定した。ベルトに手をかけ、破り捨てる勢いでスラックスを剥いで芯を露わにし、その中心を迷わず口に含む。目を見開いたままサンジは黙っておれのすることを見ていた。衝動は、止まらなかった。コイツを降参させるまで、全部を搾り切り食い千切ってしまうまで離す気はなかった。
腹の深くまで吞み込ませたモノを扱くように腰を揺すり、穿たせる。今や硬く膨らみ切った芯はおれの内部のぐずついた燻りを焼き殺すように、熱く、ズタズタに引き裂いていった。
もっとだ。もっと、深く。狂っちまうほど遠くまで。
「ゾろ、も、ダメ、だ」
「まだ、だろ……ッ、そんなもん、かよ」
いつもはおれを滅茶苦茶にする男が自分の腕の下で苦し気に見上げて来る様が、情動に火を注ぐ。
突き刺された甘い刃がある一点を突いた。声も出ずおれは啼いた。腰にめり込むほど掴まれたサンジの両手が一瞬だけ力を緩めると、緩急のある奔流が内臓を恐ろしいほどに満たし交わった縁からとめどなく溢れ出た。
ここで意識を手放せばいつものコイツの思うツボなのだ。どうしても完膚なきまで降参させなければ気が済まなかった。目の前の男の首に手を掛けると、まだ熱い息を乱すサンジは眉を寄せながらも言う。
「どうしちまったよゾロ……けどいいぜ、全部搾り取って行けよ。お前のモンだ」
「……ッ、余裕、こいてんじゃ、ねェ」
尻に力を込める。再び硬さを持ち始めた熱を何度も擦り上げ、内へ内へと。幾度か酩酊させられ、嫌というほど善がらせられた地点をめがけ突き刺すように腰の上下を繰り返すと、ついにサンジが呻いた。しかし一瞬の隙にサンジの腕が首を掴む腕を捉えると、その手をぐいと反転させゾロの身体は仰向けに倒された。のしかかるサンジの身体の重みが腹の上に重なりあっという間に膝の裏を掴まれ、大きく開かされる。
「全部やるからよ、ゾロ」
激しく揺すられ、散った飛沫が汗と交じり合って互いの腹を潤ませてゆく。
止まらない肉欲から絞り出される液体が食い切れないほど再び縁から溢れ、そのままおれは意識を飛ばした。
◇
意識を戻した時、おれはサンジの膝に抱き留められていた。
「……ん」
「おかえり」
目の前にある顔はいつもの通りのサンジで、その涼し気な様子に、おれはまた自分の敗北を悟った。
「くそ……なんでてめェはそんな平気でいんだ……」
悔しまぎれに腹を小突くと、サンジはうぇ、と呻いた。
「バカやろ、平気なわけねェだろ? おれァまた、お前が虎かなんかに取りつかれでもしたかと思ったぜ。危うく食いちぎられるとこだった」
「食いちぎるはずだったんだがよ」
「おれァお前になら食いちぎられてもいいよ」
そんなことを抜かしながら薄く笑む男に、またどうしようもなく無駄な抵抗をしたことを思い知らされる。いくら与えられようと、全部を食い尽くすことなんてできやしないのだ。それがコイツなのだから。
「チッ……」
そむけようとする頬を包まれ、軽くタッチするように唇に触れられた。
「ゾロ、好きだよ」
「…………」
「好きだ」
「……知ってる」
「好きだって」
「だから知ってるって言ってんだろ」
「おれの大事なお前のこと……ほんとは話してェんだ、皆に」
「え」
思わずサンジの瞳を見た。
「おれの恋人です、って、オーナーや、店の皆に。いや、その辺に歩いてるやつ全員に言って回りてェ。こんな奴を恋人にしてる幸せな奴なんてこの世にいねェよ。な?」
絶句、とはこういうことだと思う。
言葉が一切出てこなかった。
その代わりに、何か喉元から熱いものが昇ってくる。バカバカしい。おれの望みなんて、子供っぽい我儘だと一蹴されるに決まっていると思っていた。ただの駄々っ子みたいなことを言ってこいつを困らせたくなかった。おれは――
コイツを幸せにできているんだな。
抱きしめた男の髪には汗に混じった潮の香がまぶされて、煙の苦みは消え去っていた。
◇
「いやあ、すまなかったね。とにかく無事で良かった」
ははは、と頭に手をやり謝るオーナーのおっさんは、それでもやはり気落ちを隠せていないようだ。
「それであの船は?」
「ははは、いや、まあ修理は無理みたいでねえ、仕方ないよこればっかりは。でもまた買うから、その時は今度こそ釣りに来てよ」
「ありがとうございます。店に来てもらった時には近海の魚料理をぜひ」
「もちろん、近々また行くからその時はよろしく! あ、君も。えーと、ロロノアくん、だったね?」
「あ、はい」
「また来てよねこれに懲りず。サンジと一緒にね」
「……ッ、はい」
「じゃあオーナー、お世話んなりました! 今日はこれで」
「おお気を付けて……あっと、サンジ」
「? はい?」
振り向いたサンジに、オーナーは声を少し潜めて言った。
「恋人と末永く仲良くな?」
「え」
するとオーナーはこちらに向き直り、改めてという風に笑顔で言ったのだ。
「見てればわかるよ。良い恋人がいて羨ましいね、ロロノアくんも」
満面の笑みでいつまでもオーナーに手を振るサンジを引きずっていくのに難儀したのは、言うまでもない。
終