天の川渡り
「……よぉ」
「あんた…………」
逆光の中に見覚えのあるシルエットが浮かんでいる。少し掠れた低音の声。肘まで腕捲りをしたエンジ色のジャケット。シャラ…と僅かに鳴ったのは重ね付けしているブレスレットの音だ。ふらりと現れたその男は、一年前に消えたあの野郎だった。
「なん、で」
「覚えてねェ? つれねえなあ、来年の七夕にまた再会しようぜって言ったじゃねェか」
「そんなもん…信じるわけ」
「信じてなかったって? こう見えておれは律儀なんだぜ、約束は守るさ」
そう言いながら、おれが何か言う前に奴はもうとっとと靴を脱ぎ玄関の縁を跨いで入って来た。
「おい、誰が入っていいって」
「変わってねェなあお前。ん、ちょっと髪が伸びたか?」
そう言ってサンジは頬に手を伸ばして来た。指がこめかみに触れようとするのをすんでのところで避ける。
「ッ、あんたほどじゃねェよ。なんだそのクルクルアホ毛」
「あー、いいだろこれ? 今日の為にちょいとお洒落にしてくれよって頼んだら、美人な美容師ちゃんがチャチャっとやってくれたんだよ、似合うだろ」
今日の為に、という巧妙な脅し文句を交えてニヤリと口角を上げる男。髪型以外何も変わっちゃいない。あの頃と同じ甘い体臭に混じる苦い煙の匂い。さっさと出て行かせるのが己の身のためだ。そう思っても、口からまるで拒絶の言葉が出てこない。目の前の男にあっという間に左脳を握りつぶされそうになる。心の準備など出来ちゃいなかったのだ、この男を拒むための覚悟なんてのは。
その時、突如外から滝のような水音が聞こえ始めた。突然の驟雨だ。
「あーあ、ひっでえ雨。せっかくデートしようと思ってたのにさ、これじゃ何処も行けやしねェよ、な?」
「………」
出て行けと言わせない空気に天候まで味方しやがった。
一年前のあの日も七夕と呼ばれる日だった。年に一度恋人同士が出会える日だとさかんにニュースで報道されていたのを思い出す。そして、この男に初めて身体を許したのもあの日だ。暗がりの中、うわ言のようにコイツの名を呼んだおれに「来年また、必ず来るよ、ゾロ」たしかにそう囁いた。何故来年? そう尋ねても奴は明確に答えずに、ただ激しく揺さぶられてその答えは湿りきった部屋に霧散した。その日は一日中おれを抱き散らかして、翌日、灰皿に数本の吸い殻だけを残してコイツは消えた。
「一年も、放置しやがって、どの面下げて今さら現れやがった」
「悪かったよ…でもほら、ちゃんと戻って来たろ? 約束どおり」
「約束なんて、一方的にあんたが言ったんじゃねェか。悪いなんてミリも思ってねェくせによ」
「怒んなよ…なあ、喧嘩しに戻って来たんじゃねェんだからさ、ゾロ」
急に甘い声色で名を呼ぶのはコイツの常套手段だと身に染みて分かっているのに、身体が反応を示してしまう。背中にゾワリとした身震いがくるのをやり過ごそうと一歩後ずさると、すかさず奴は足の間に長い足を差し入れて来て、両手首を掴まれた。一瞬の早業におれは遅れを取り、たちまち強く壁に押し付けられ唇を奪われた。
「ッ……」
遠慮なく忍び込んで来た舌に甘く絡め取られ、掴まれた下顎を強引に開かれて飲み込まれるほど口内を蹂躙された。充満するこの男の匂いが、否が応でも一年前の情事を呼び起こす。恐怖すら感じる、噎せ返るほどの愉悦の匂いだ。いつの間にか腹を辿る掌がベルトに手をかけようとしたときに、陥落しかけた意識を全霊で呼び戻して奴を強く押し退けた。一瞬ふらついた男の頬に力いっぱい拳をぶつけると、激しい音とともにサンジは壁に背中を打ちつけ、ズルリとそのまま尻を床に付けた。
「い…いかげんにしやがれ、おれは、あんたの、暇潰しじゃねェ」
サンジは切れた唇を手の甲で拭い、驚いたかのように目を丸く見開いておれを見つめた。
「一年も経ちゃ、忘れてるとでも思うのか? あんたの女癖の酷さをよ。別れる度におれの部屋に転がり込んで、また出て行って、しまいにおれなんかで…穴なら何でもいいんだろ? さっさとまともな女見つけて定住しろ、こんなとこに寄り付くんじゃねェ!」
「……」
「言い訳すら出てこねェかよ。とんだ自称女好きじゃねェか、少しは選んで」
「ゾロ」
おれのぶつけた醜い言葉をサンジはじっと聞いていた後、静かに遮った。
「……もっともだ、お前の言う通りだよなァ」
「……」
「けどな、ひとつだけ言わせてくれよ。おれは『選んでる』つもりなんだぜ? 何でもいいなら殴られにわざわざ来ないさ」
「……!」
自嘲するような笑みを浮かべ、サンジはしばらく床を見つめていたが、ふいに立ち上がってスラックスの膝をはたいた。そのまま無言で玄関に散らばった靴を拾い、ドアを開けた。
外は、相変わらず煙るほどの豪雨が降り注いでいる。
「じゃあな」
「おい……」
傘を、とつぶやく前にドアは目の前でバタンと閉じられた。
轟々と何かを力づくで洗い流すかのような雨が、その夜は一晩続いた。
石を詰められたように重い頭痛で目覚めた。まんじりともせず朝になったと思ったが、ほんの少し意識を失っていたらしい。窓を見ると白く濁ったガラスに激しく雨が打ち付けられている。布団から手を伸ばし、転がっていたテレビのリモコンを拾い上げてスイッチを入れると、映し出された天気図の画面は軒並み傘マークだ。
『今日も雨足が強く、土砂災害にも警戒が必要です……』
思い立ち、立ち上がって玄関へと向かった。タタキに置かれたゴムのサンダルを足に引っ掛け、ドアのノブを握ってから、しばらく動きを止めた。まさか、もう戻ることはないだろう。戻ってくる理由なんてない。アイツの面もろとも、くだらない感情は殴り飛ばしたんだ。約束なんてリセットされて奴もせいせいしただろう、バカなことしなくてもいい。
握ったドアノブが、汗でぬるついてくる。雨音は、昨日と変わらなかった。手を外して、サンダルを脱ごうと踵を浮かせた。その時に、ドアの外でガサリと荷物が落ちるような音がしたのだ。
思い切りドアを開いてみると、昨日の男がドア横の壁越しに座り込んでいる。
目を疑ったが、見間違えようもない。びしょ濡れのエンジ色は濃く色変わりして、俯いた頭を囲んでいた金の髪は雨に打たれて波打ち、鳥の巣のようにぐちゃぐちゃに乱れていた。
「サ……」
それ以上、声が出ない。
濡れそぼった頭が揺れ、こちらをゆらりと見上げた。腹をすかせた迷子の子犬のような目は、しかし虚ろに陰を棲まわせておれをみつめた。
「何してんだ…あんた、まさか、昨夜からずっと……」
「はは……まあなァ、わりと痛かったよ、力あんな、お前」
そういって自分の拳を頬に当てて見せた男はヘラリと笑った。その途端、クシャンとクシャミをひとつかまし、なんかさみぃ、などと嘯く。全く、コイツは前世、堕天使か何かだろうか。いや今生でもおよそ人を堕落させる、何かの顕現に違いない。そんな風に思わせるほど酷く狡い振る舞いをしてみせるくせに、この男はなお本当に欲しいものを訴えてこないのだ。
「びしょ濡れジジイが」
「ひでェ言い草だなぁ、おれはまだ三十代だぜ?」
「ああ、充分ジジイだ」
腕を引き無理やり立たせて、玄関に引っ張り込むと、しとどに濡れたジャケットからの雫がタタキに水溜りを作った。冷てェんだよなぁとほざくのを無視して重く雨を含んだジャケットを脱がすが、もはや全身が冷え切っていてどうしようもない。
「おっさん、こりゃダメだ、このままシャワー行けよ、風邪ひいちまう」
「おぉ? えらく優しいじゃねェか、ダメだぜそんな事ほかでしちゃぁ、付け込まれっぞォ」
付け込んでるのはまさにてめェだと心中で悪態をついた、が、それは言葉に乗せられなかった。どの口が言うんだおれは。そうだ、付け込ませているのもまさに今、おれじゃないか。
少しふらつくサンジを肩で支えて、引きずるように浴室へ突っ込む。閉めんぞ、と扉を引こうとすると、その手首を強い力で掴まれた。掻きむしったような金髪の隙間から覗く潤んだ蒼に、雄の色が差している。だめだ。引き込まれる。けれど振り解けないことも、コイツは知ってるんだ。
「来いよ、ゾロ」
再びゾワリとした痺れが背中の中心に走った。
「何もしねェから、さ」
「それほど信用ならねェ言い草もねェな」
「はは、バレた」
「あんたは昨日、殴られて帰ったんだ。それでリセットだ。これは単に、…ボーナスだ」
サンジは目を細めて静かにおれを見つめていたが、そのうち、ふうと息を吐いて、観念したように呟いた。
「なあゾロ。おれはさ、彦星にはなれねェよ」
「なんの…ことだ」
「一年に一度じゃおれは」
耐えられねェ。
奴はそう、言った。
側を離れたくなくて、ここにいたんだ。そうも言った。
奴の吐く言葉ひとつ一つが心臓を甘く突き刺す。なんて狡い野郎なんだろう。どれもこれも、きっと女なら舞い上がるに違いない甘ったるい言葉だ。けどそんなものが欲しいんじゃない。おれが欲しいのは、あんたが本当に欲しいものだ。示せよ。
「…あんたにとっておれは、何の代わりだ」
そう問うと、ゆっくりと瞳だけをこちらに向けたサンジは、何かを言おうと唇を少し開いて、そのあと暫く黙っていた。
「答えろよ」
「ゾロ」
掴んでいた手の力がふと緩んだ。
「抱いてからじゃダメか?」
「ダメだ」
「キビシイなお前」
「自業自得だろ」
そうだなぁ、と天井を仰ぎながら、サンジは長い息を吐いた。
「彦星にとっての織姫は、一人しかいねェんだよ」
「あぁ?」
「代わりなんかいねェの。だから会えなきゃその年は、黙って帰るしかねェよな。そんで一年、また忍耐だ」
「何の話してる」
「彦星はマジメだって話さ」
「ふざけてねェで……」
おれの言葉の続きは、冷えた唇に塞がれた。
おれの後頭部を掴む手のひらからも、冷えた体温が伝わってくる。一方で、ぬるりと滑り込んで来た舌は火のように熱くて、理性をまるまま啜り取ろうとするかのように蠢く。柔らかに口内を巡ったあと、徐ろに唇が離れた。
目の前に、熱と哀を湛えた今にも泣き出しそうな蒼がある。こんな眼を隠し持っていた事を、いま初めて知るとは。この男の内を覗ける唯一の窓は子供のように澄んでいて、なんて美しいのだろう。そう思った。
遠くで雷鳴が数度、鳴った。
「だからよ…おれは彦星をやめに来たんだ」
「な……」
「お前を諦めるのを、諦めた。天の川、もう渡っちまっていいか」
とびきりに酷い男には違いないのだ。
そんな男を待ち続けていたおれは、天文学級の馬鹿野郎なんだろう。せめて、息の根が止まるほど抱きしめて、思い知らせなけりゃ気がすまない。
来年まではもう待ってやらねェぞ。ここから逃げられると思うなよ。きつく抱きしめながらそう言ってやると奴は笑って、
「お前の束縛、欲しかったんだ」
と宣った。
あとは互いの体液が熱いシャワーに混じるがままで。
「好きだよ、ゾロ」
抱きながら何度目かに奴が囁いた言葉を、おれはやっと信じる事が出来たのだった。
完