雛鳥は三度瞬く
鼻腔を擽るジャスミンの香りに意識が揺れて、ゾロは再び覚醒した。ゆっくりと目を開いてみると、石膏の白い天井が落ちて来そうなほど低い。んん、と一つ背中を伸ばして寝返りを打った。体を横にして被っていた布団を避けてみると、傍に黄色いススキ色の小宇宙が丸くなっているのが目に入り、ゾロは思わず、ふ、と息を吐いた。なんだ。ゆめか? コイツはまたススキの原っぱに埋もれちまって、ついにススキの化身にでもなっちまったのか。不意にそんな不安に駆られて、丸まったキツネのようなススキ色の頭を掌でガシリと掴んだ。
「おわっっっ!? いってェ!」
ガバッと丸い頭が起き上がった。
「目ェ、覚めたか」
「?????」
一瞬、キョトンと目を丸くした男は、次の瞬間には
「おれの、セリフを、盗るんじゃねえ!!」と叫んで掛け布団を投げつけてよこした。
「この迷子白マリモ野郎〜、測れ、ほら、熱」
グリグリと脇に体温計を強引に差し込んでくる男は、どう見てもススキの化身じゃなさそうだ。コイツは確かに、おれが会いに来た野郎で間違いない。
「熱なんかもうねェ」
「黙れ。それはこの体温計様が決めるこった。ピピって言ってくれるまでてめェは静かに反省してろ」
「何を」
「あぁ?」
「何を反省すんだよ」
「何をって……だからよ、あんなとこで一晩中凍ってたその無謀さにだよ! おめェ、絶対ェ都会を舐めてたろ。いくらあっちに比べて南だって言ってもな、真夜中の底冷えする十二月に」
「おれァ間違ってねェぞ」
「あ?」
「ちゃんと合ってただろうが、てめェの家」
「あ? お、おう……まあ、な……いやけどお前、そうだ、なんでここに居るんだよ。それを聞きてェっての」
サンジはますます腑に落ちないというように眉を歪めた。
「何で? ……あー、別に用事はねェ」
「え」
「来たかったから来た。それだけだ」
「来た、かった?」
「おう」
ますます分からないという風情で、サンジは黄色い頭をガシガシと大きく掻いた。そして、しばらく俯いて大きく息を吐き出したかと思うと、クククと低い笑いを溢した。
「……ったくよ……なんだか知らねえけど、来てェならそう連絡ぐらいすりゃあいいんじゃねェ? 突然東京見物でもしたくなったか」
ちょっと待ってろ、さっき熱いジャスミンティーを淹れてやってたからよ、そろそろいい頃合いの温度だ。そう言いながら立ち上がろうとする男の腕を、ゾロは強く掴んだ。
ああ、そうか。やっとわかった。
おれがなぜここへ来たのか、その理由が。
「困るからだ」
「は?」
「てめェが、いねェと、困る」
ピピピピと計測完了を知らせる音がふたりの間を遠慮がちに横切ってゆく。
そうだ。お前がいねェと困る。余った牛乳の旨い使い道が見つからなくて困る。薪を割るのに急かしてくる野郎がいなくて困る。白い息を吐きながら、凍結した道をどっちが滑らず歩ききるかを競って中腰でふらついて、こけたおれを大笑いする奴がいなくて困る。皆で囲む冬鍋に、お前がいねェと……
いやになるほど続く長いススキの道に、先に歩くお前が溶けて見えなくならねェように、いつだって目の前になきゃ困る。
「…………なぁゾロ」
「なんだ」
「キスして、いいか」
おれは返事をしなかった。
ほんの数秒、おれたちは無言で目を見つめあっていた。
そのうち、近づいてきたアイツの目を縁取っている睫毛が金色に震えて、雛鳥が初めて不器用に羽を動かすかのように二、三度瞬いたあと、大粒の蒼は丁寧に仕舞われ代わりに柔らかな感触が唇に与えられた。
そのあとの記憶は曖昧で、
後になって湧き出すように浮かぶその夜の記憶の断片には、ジャスミンの香りが色濃くまとわり付いていた。
◇
「キスしていいか」
そう言ってみた。それは本心からの欲望でもあり、同時にブラフでもあった。ゾロが拒むならそれでいい。バカにされても、キレられてもそれで良かった。おれの胸の底に累々と積まれた絶望の屍が、もう無理だと瀕死の声を上げている、その声に従順になるしかなかったからだ。
さらにはおれはゾロに対して微かに加虐的な感情がある事も自認していた。この絶望の屍の一握りでも、コイツに擦り付けてみればどうなる? そんな思いが逆に自分を虐げて、肺の辺りが苦しくなる。
でも無理だ。圧倒的に白くて強い清廉な男に、今ここで乞う。
ゾロは、返事をしない。
強い光の差す瞳は、けれど拒んではいない。
初めて覚える畏れ。
己にも他人にも厳しいこの男が、この汚れた願いを赦すというのか。
その甘さを今ここで味わってもいいのか。本当に?
柔らに甘く、滑らかに、その敬虔な門番はおれを受け入れて深く深く深く、未知の泉に沈めていった。甘美な地獄へと。
どんな罪状でもどんな報いでもおれは受け取る。お前が欲しい、ゾロ。