雛鳥は三度瞬く

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Hiems  Luminaria

『北日本は、大雪に警戒してください』
確か今朝、ニュースの天気予報でそう言っていた。

薄く雲の張った、曖昧な曇り空を見上げて手を擦る。今年は暖かな秋だったらしいので紅葉の時期も遅く、近所にあるなんとかというデカい神社にも、最近までワイワイと修学旅行と思しき高校生の集団が楽しげに歩いていた。店へと向かう道すがらに、横目で見える範囲の境内には、確かに鮮やかな紅色をした紅葉が艶やかにお披露目されているのが目に入っていた。
しかし、その彩りを楽しむ暇もなく、日々サンジは店と家との往復に明け暮れ、怒鳴られ、絞られ、気づけば紅色の葉っぱは足元に絨毯のように敷き詰められ、そのうち、粉々に砕けて土に還っていった。
境内の紅葉はすっかり葉を落として、冬支度の枝を掲げて静かに揺れていた。
おれの中じゃあ、こんな気候はまだ秋なのにな。
故郷の冬は、こんなものじゃあない。薄手のダウンジャケットの襟を少し立て、厳しい北国の白さを想う。
あっちはもう、とっくに火を入れてるだろう。旧式のデカいガスストーブと、さらに旧式の五右衛門風呂。その薪を、今年も割っていただろう。白い息を吐きながら、鼻を赤くして、あいつは今年もきっと、深型の一輪車でせっせと運んでいたに違いない。
寒さが足りない。もっと痛むほどの寒さが。

「おいちびナス、余りだ。持ってけ」
そう言って店のマスターが寄越してきたのは、ここ数日、店のスタッフ総出で大量に作ったシュトーレンだった。
「え、これ……」
「余りだ、って言ったろう。てめェが毎日クソ真面目に作ったお陰で、予約注文の分が全部あがった。それァ、まあ、ボーナスだ」
ボーナス。この店で、賄い以外の余り物を貰ったのは初めての事だ。見習いスタッフにはとびきり厳しいマスターが、新米のサンジにボーナスなどと言って店のものをくれるなどと、俄かに信じがたかった。目を丸くして呆然とするサンジを、マスターは怒鳴りつけた。
「何ボーっとしてやがる! それ持って今日は早く帰れ、さっさとしねェとそれ返してもらうぞ!」
「え、あっ、はい! じゃ、お疲れっした!」
慌ててコック服を着替えて外へ出る。
すっかり日が暮れた街のオレンジ色の外灯が、色とりどりのイルミネーションと混じり合い、普段より随分と明るい。その明るさに見入っていたサンジは、ようやく気が付いた。もうすぐ世間は、クリスマスだということを。
「あんのクソジジィ……乱暴な気ィ遣いやがって」
おれには今、急いで帰る理由なんかねェっての。
交差点の信号が赤になり、サンジは足を止めた。
手にしたシュトーレンを落とさないよう抱え直し、冷えた夜空を見やると、キラキラと点滅するものが真上を横切ってゆく。
飛行機か……
あの空、あいつの家まで続いてんのな。
あの飛行機に、これぶら下げて、持ってってもらえねェかな。
何だこれ、見たことねェ、って怪訝な顔をするんだろうな。

そう思った時、突然、撃たれたように風景が止まった。

交差点の信号が青に変わった瞬間、サンジは、走り出していた。

ピンポーン ピンポーン
「…………」
S、A、N、J、I。
そう書かれた表札のラベルの英文字を、ひとつひとつ指で辿る。
ここで合ってる、よな。

『21時30分発、札幌行きNHXXXX便をご利用のお客様は、搭乗口までお急ぎください……』

シュトーレンを抱えて、第一ターミナルの人混みをかき分けながら、ツルツルした通路をおれはひた走った。途中、スーツケースを引いたご婦人にぶつかりかけて苦い顔をされるが、今は丁寧に頭を下げる時間がない。申し訳ない、お許しを。
息を切らせてたどり着いた搭乗口には、両脇にズラリとスタッフが並んでいた。「行ってらっしゃいませ」とにこやかな笑顔に見送られ、一瞬、ここは何のパラダイスかと考えたが、そう、東京発の最終便に飛び乗った客は、正真正銘、おれが最後だったのだ。

「えっ」
「お?」
「あら」
重い二重扉を力任せに開き、勢い余って居間に飛び込むと、見慣れた懐かしい面々が一斉にこちらを向いた。大きな鍋を囲んでめいめいに皿を持ち、一様に、大きく目を見開いて。
「お前……サンジ?! ウゴフッ」
ウソップが箸を手に激しく咽せた。
「どうしたんだ急に? 帰るって聞いてないぞー!」
手に持った小皿から出汁が垂れ流されているのに気付かないまま、目を丸くしたチョッパーが尋ねた。
「ハァッ、ハァッ、……」
握り締めているシュトーレンはすっかり形を崩して半分へしゃげている。けれど、息を整える暇が惜しい。見慣れた仲間と一緒に、ここで寛いでいるはずの男を探して部屋を見渡す。
居ない。
居ない。
おい、あいつは……? そう問おうとしたのを見計らったかのように、頬を膨らませたままルフィが言った。
「ゾロなら、いねェぞー」
「……は?」
「東京行くって、ついさっき出てったぞ」
「は?」
「お前んとこ行くってよ」
「は……?」
開けっ放していた玄関の扉から、潔いほど冷えた空気が、足元をひたひたと埋めていく。ここが北の果ての大地であることを忘れ、おれはその場に立ち尽くしていた。寒いわね閉めなさいよ、と懐かしの叱責も何故だか耳を素通りしつつ。

若気の至りを誇示するように、重低音を撒き散らす車が走り去る。それを追ってパトカーの音がけたたましく近づいてきたと思うと、居心地の悪い騒音を撒き散らしてまた、遠ざかっていく。どこかで、パァンパァンと破裂音が数発。複数の享楽的な笑い声。絶え間なくタイヤがアスファルトを削る音。賑やかというには少し自分本意に過ぎる耳慣れないビートばかりが、真夜中の街を見境なく行き交っている。
「さみィ……」
スン、と鼻をすすってゾロは身を縮こませた。
極寒仕様のダウンジャケットを着込んでいるとはいえ、尻の下のコンクリートからは容赦ない冷えが襲ってくる。
目の前には、クリーム色に少し錆が混じったスチールのドアかある。その真横の壁には、プラスチック製の表札のようなものが嵌め込まれていて、黒いマジックでアルファベットが五文字、少し右上がりに書かれていた。

『SANJI』

ゾロはゴソゴソとポケットから紙片を取り出すと、何度目かの確認をするために書かれた文字を目を細めて見つめた。友人のウソップに、半ば脅すように聞き出した住所が殴り書きされている。ここで合っている筈だ、とゾロは思っていた。いや、確信していた。我ながらここに辿り着けた事を褒めてやりたいと思った。

「東京へ行く」
アイツはあの時、唐突にそう言った。一瞬、何のことか分からなかった。誰が、いつ、何をしに。そんな事が頭をぐるぐると駆け巡り、ただ金色の髪が風に踊るのを見ていた。聞いてんのか、と問われて反射的に口が動いた。
「とうきょう?」
目の前にあったのは少し猫背気味の背中と、敷き詰められた銀杏の葉を巻き上げる風の音。それ以外、何もなかった。「何で」と声に出そうとして、喉が強張った。アイツはその後もペラペラと何事か喋っていたが、言葉が意味を形作る前に、無情に素通りしていった。ただひとつ理解した事は、
コイツはここからいなくなる。
おれに止める資格があるはずもない。コイツ自身が決めた事なら、それはもう覆らない。行けばいい。そう思うのに、一向に喉の強張りが取れない。引き攣るような冷たい感覚が、じっとりと背中に張り付いている。口の中は乾いているというのに、何度も何度も、唾液を飲み込んで、そして漸く見つけた言葉は、おれ自身の深いところを突き刺した。致命傷だ。
突き付けられていた切っ先は、ずっと前からおれの心臓を狙っていた。分かってた。いつかコイツに殺られることも。
風の音が途切れ、少し先をあるく背中がふいに歩みを止めた。
「冬が来る前に、行くわ」

その年の冬は、殊更に寒かった。それ以外は何も覚えちゃいない。
牧場の手伝いは、その時のおれにはうってつけだった。朝から晩まで牛どもの世話。空いた時間は全て竹刀を振るか、さもなくば筋肉を虐め倒す。そうしていれば何も考えずに済む。早く薪を割れだの、芝を運べだの、釣りに行けばわざわざ隣りで同じ餌を撒き、獲物の大きさをミリ単位で張り合う野郎の事を考えずに済む。
だからおれの鍛錬は完璧だ。一年前とは比べ物にならない程、強くなったんだおれは。
冬のせいなんかじゃねェ。
ただ、肉離れを起こしたんだ、ある日突然。
おれのココロん中で、何かが。

「……………おーおー…」

まどろみを遮ったのは、都会の喧騒でも派手なネオンでもなかった。
少し掠れた低音で、森の中から何かを探し当てた王子のような不思議な声が、頭の上から降ってきた。まだ夢の中か?
薄く目を開いてみると目の前に、黒いデニムに包まれた二本の足がある。
「……雪像マリモ」

目が霞んでいる。
すりガラスのような視界に浮かんだ二本の足を見上げようとすると、ふいにパンパンパンと頭をはたかれた。冷たい粉が顔周りに降りかかる。これはいつもの冬によく体感してるやつだ。
「凍んぞ。なんならもう凍ってんぞ、起きろ」
グイ、と凄い力で両腕を引っ張られ、立ち上がらされた。その拍子にグラリと世界が歪んだ。薄まる意識の端に、いつぞやの道に埋め尽くされた銀杏の葉のような、遠く果てしなく遠くまで続く夕暮れのススキのような、方時も忘れ得ないあの色が揺れた。

次に目を開いた時には、おれは簡素なベッドの上で布団をぐるぐる巻きにされていた。
「お。目ェ覚めたか」
「あ…………? ここは」
「ここはじゃねェよ、この重病人が」
「じゅうびょう……にん?」
「そーだ、てめェの事だ。おっと、起き上がんなよ、熱が上がんぞ」
伸びてきた腕がおれの額を捕らえた。静かに、そして少し躊躇いがちな手のひらは、冷たくて心地良い。
「お前……よくここに辿り着いたと言いてェがな、馬鹿か」
「あァ? ……」
「人の家の前で氷地蔵になってんじゃねェよ、って言ってんだよ。おれがもう少し遅い便に乗って来てたらお前、マジでどうなってたと思う」
「どうも……こうも、……しるか」
てめェが居ねェからだろうが、と、抗議しようと口を開いたが腹に力が入らない。代わりに、荒い息を吐かずにいられない。全身が鉛のように重く、地の底まで沈んで行きそうだ。
目の前にあった男の顔が近づいてくる。
おれの記憶を埋め尽くすコイツの表情の、どれとも違う顔が近づいてくる。
ふいに額から移動した手のひらが両目を塞ぎ、それ以上の記憶の扉を探すことを拒んだ。
「馬鹿やろ」
耳元に酷く弱々しい罵倒が届いた。消え入りそうな『クソマリモ』を添えて。
全身が重く燃えるように熱い。それなのに何故だかおれは、今この世界が消えちまっても構わないと思っていた。
コイツを道連れに。
頗る気分がいい。
地獄も天国も、行ってみればそれほど変わらない場所なのかも知れねェと、そう思った。
再び遠くなりゆく意識の向こうに、おれの先を歩く背中がついに振り向いたのを確かに見た。 

『東京行くって、ついさっき出てったぞ』
耳を疑ったのは、その後だ。
『お前んとこ行くってよ』

まさか一両日中に、東京と北海道を往復する事になるなんざ思わねェだろ。
いつもそうだった。アイツは普段から口数が多くはなくて、おれに対する憎まれ口以外(それだけは立派に口が回る)大した話はしない野郎だった。小さい頃の事を先生に聞かれた時だって、話をしたのは殆どおれで、おれが釣ったザリガニの大きさにケチをつける時以外、アイツは横で眉間にシワを寄せながら頷いたり首をかしげているだけだった。思えば今まで、何か大事な事をアイツと話したという記憶がない。そう、この東京行きを切り出した時だって、アイツは何も言わずにおれをただ無言で見送ったんだ。
それを答えと受け取って、あの日おれはこの出口のない感情を厳重に封印した。決して溢れ出てこないように、モノクロームの写真の中に閉じ込めて、都会の喧騒という慣れない化粧まで施して。

目の前に居るマリモ頭は、薄らと積もった雪が頭に塗されて白くオホーツクの色味を纏っていた。何だか新手の小動物のようだった。凍った雪原の中で小さな穴にじっと身を屈めて、出来るだけ腹を空かせないように耐えているかのような。
半ば信じられぬ、夢の中のような光景におれは動揺していた。
アイツが居る、目の前に。
これは現実なのか?
夢とうつつを行ったり来たりした末に、おれの部屋のドアの前でうずくまって眠りこけている男を、やっぱり美しいと思ったんだ。
そしてあまりの愛しさに、おれは暫しの間押し潰されていた。封印なんてものは、こうも簡単に解かれちまうもんなんだな。それならもう、覚悟を決めて認めちまうしかねェ。このままコイツを……
帰す訳には、いかねェんだ。

白く冷え切った藻頭を叩いてみれば、あの遠い大地に置いてきたつもりの記憶が鮮やかに色を取り戻し始めた。

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