雛鳥は三度瞬く

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挽夏

夕暮れ。
水平線に陽が落ちるギリギリの時間。ゆるやかな光芒が窓に届く。それは柔らかな薄紅色と水色に分解されて、カーテンを二色に染めるのだ。抜き足差し足、ゆっくりと、少しずつ湿り重くなってゆく真綿のように。ひっそりと。
気付いた時には、すっかりと闇に覆われた世界のできあがり――

「あっ……つ」
まとわりつくような湿っぽい熱気に起こされ、サンジは寝返りを打った。バンバンと左手で枕元を叩くと、四角いプラスチックの目覚まし時計が手に触れた。重い瞼の隙間から、長針と短針をぼんやりと見つめる。八時、四十分。
「はちじ?!」
跳ねるようにサンジは飛び起きた。なんてこった。今日は絶対、何がなんでも遅刻できない日じゃねェか。クソ、と自分に悪態を吐きながら洗面所に飛び込む。洗うというより濡らしただけの髪を全速力で乾かして、髭剃り、歯磨き、そして着替え。まるで早送りの映写機だ。とにかく遅れる訳にはいかない。そんな強迫観念に蹴り出され、サンジは最寄駅の道へと駆け出した。

「おっせェぞ! 遅刻一分につき、千円罰金だって言ったろうが!」
「すっすいません! 凄く可愛い子が道に迷ってたもんで、ついほっとけなくて、一緒に道を探し歩いてたらこんな時間にホゲッッッ」
サンジが最後まで言い訳をさせてもらえなかったのは、強烈な蹴りが一発、まともに腹に入ったからだ。
「嘘をつくんじゃねえ! てめェの寝癖の付いた頭をみりゃあ、寝坊だってすぐ分からァ。今日は大事な貸切の予約が入ってるから絶対に遅れんな、って言ったろうが! さっさと着替えて準備してこい!」
「はいーーッ!」
やれやれ。相変わらず気性の荒いマスターだ。確かに嘘を吐いたおれが悪いが、あの足癖の悪さは何とかならねえものか。サンジはコックスーツのボタンを急いで嵌めながら独りごちた。ま、それでも都内で一、二を争う腕を持つ料理人であるマスターの店に、見習いとして雇われた事は僥倖以外の何ものでもない。何としてもあのオヤジの腕を 盗んで、学んで、それでいつかおれは。
アイツが美味いと言ってくれるのを――
頬袋をパンパンにさせて、ガツガツと残さず飯を食う男の顔が過ぎる。
まただ。
料理の修行に集中することで、日々を埋めているつもりだった。思い出す隙もなくなるほど、埋めて埋めて、念入りに、地下深く埋めて。なのに気を緩めると、性懲りもなくあの男の顔が綻んだ脳裏にするりと現れる。
今何をしてる。どこに通ってる。誰と話してる。……何を食ってる。

『お前、何だよそれ! 何運んできやがった』
『隣の牧場のオッサンが持ってけっていうからよ』
『いやいやいや、ちょっとお裾分けにしても多過ぎるだろ! なんで軽トラいっぱい牛乳があんだ!』
『絞りすぎたらしい。余っても捨てるだけだからってんで貰ってきた』
『お前なあ……コウシロウさんにまたどやされんぞ』
『お前がまたどうせ上手く使うだろ。任せた』
『……っ、あのな、それでも程度ってモンがあるんだよ』

ああ止まらない。おれは上京してこっち、決意とは裏腹に、毎日毎日妄想のてめェと会話してんだ。どうだこの体たらくは。なあおい、たまには何とか言えよ、おれを嗤え。いや、
お ま え は な に も し ら な く て い い

「ちびナス! おい! 何ボーッとしてやがる! そこ、下拵え早く始めやがれ!」

ツクツクボウシが、呆れたように間延びした合奏を聞かせてくれた。
東京の夏は、もうすぐフィナーレを迎えるのだ。

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