必ず戻れ

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出港の時間が近づいていた。

「淋しくなるねえ」「いつ帰ってくるの?サンジお兄ちゃん」「いつかなあ、お前らがもっとデカくなったらかな」「えー、嫌だ!デカくなっちゃったらサンジお兄ちゃんに抱っこしてもらえなくなるじゃん!」「抱っこぐらいしてやるって、ばーか、泣くなよ」「サンジ、体に気をつけてな、しっかりおやりよ」「おう任しとけ」
孤児院のチビ共に囲まれたアイツは終始笑顔だった。さみしいさみしいとむずがるやつらの頭を奴が順に撫でるのを、おれは少し離れたところからずっと眺めていた。
ボォー、ボォー、と汽笛が勇ましげに鳴った。じゃあ行くよ、とマザーに頭を下げ、服を引っ張る小さな手たちを優しく外す。デカい革の四角い鞄をひとつだけ持ちあげて、岸壁に歩き出そうとしたときに奴は、不意にこちらを振り向いた。視線の先はマザーでも子供らでもない。おれの背後には無機質な工場の灰色をした壁しかない。つまり見ているのは。
見慣れた金色の糸がカーテンのようにさらりと風に踊り、こちらを向いている奴の左目が一瞬露わになった。碧い色をした瞳。コイツの眼は海に似合うといつも思っていた。クソ生意気な口をきくときも、瞳の中にある澄んだ海は目の前のおれを通り越して何か遠くを見通していたことを思い出す。そんな瞬間はひどく懐かしく、同時に胸が熱く重くなって訳も分からない感情が襲ってくるのだ。その『訳』を知ったのはほんの最近のことだった。
「何吸ってんだそれ」
「お前には要らねェだろ」
「欲しいなんて言ってねェ、臭ェんだよ」
「お子ちゃまなゾロくんには分かんねェよなあ、この味わい」
街でたむろするジジイどもが臭い煙を吐くための草は全くコイツには場違いだ、けれど何故かその細い指が白い紙筒を挟む横顔がさまになっている。そして珍しくもない光景のように思えて仕方なかった。カッコを付けた黒いスーツを貰って、浮かれながら見せつけに来た時もそうだ。白い顎に、髭を伸ばし始めて毎朝鏡を覗いている時もそうだ。そうやってコイツが大人びようと背伸びするたびに、おれの中の何かのスイッチが一つ一つオンになってゆく。
最後のスイッチがどうやら押されたらしいのは、奴を引き取るという里親が現れたときだ。
孤児院を出る事が決まればそれは本人だけでなく院にとってもことさら嬉しいことのはずだった。皆の祝福に応えて笑顔を振りまく奴はこれから幸せに生きる希望を得たはずだ。それなのに胸騒ぎが収まらない。奴の幸せとは何か。たびたび生まれる問いに奴は真正面から答えない。ただ台所に立ち、皆のために料理を振る舞うその時間だけは、奴のホンモノの笑顔が見られる事だけは分かっていた。そして。
コイツの笑顔に種類がある事もとうに知っていたのだ。
皆を安心させるための笑顔。
最後のスイッチが押されたのはそれを見た瞬間だった。

奴を引き取るという里親は、この孤児院に多額の寄付をしている王族らしいと聞いたのはその後のことだ。

「『クソコック』!」
気づけば岸壁で叫んでいた。
全員が、一斉に振り返る。
「しぬなんてヘマはしねェよな?」
そう言ってやると、奴はニィッと口角を上げて馬鹿でかい声で叫んだ。
「あたりめェだ、『クソ剣士』!」
『クソ剣士』と呼ばれたのは初めてのはずだったのにおれはその時腑に落ちた。何故それほど海が似合うのか、その意味をアイツもすでに知っていたのだ。それならアイツは、きっとここに帰ってくる。
おれの最後のスイッチが赤く光った。

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