心臓に棲む

タグ: [1378 text]

普段の些細な喧嘩は、日常会話のようなものだ。あァ?と威嚇されれば倍にして返すのはもはや礼儀ってもんだと思っている。
けれど昨夜は少し言い過ぎた。きっかけはもう覚えちゃいないが、何故かヒートアップした言葉の応酬は奴を本気で怒らせたらしい。険悪な空気のまま、背中合わせで一晩をやり過ごした。こんな事は、一緒に住み始めてから初めての事だった。今朝は仕事が早番のおれより先に出て行ったからひと言も口をきいていない。さすがに今日一日、仕事に身が入らずに、奴にどう言って拗れた空気を元に戻すか、そればかりが頭を占めていた。
今日は奴の方が早く仕事から戻っている日のはずだ。いつもなら、おれが帰る時間に合わせて仕上げた温かい夕飯が、既にテーブルにきちんと並べられている頃合いなのだった。
すっかり日の伸びた真っ赤な夕焼けが帰り道の雑踏を芸術的に彩っていて、思わずおれはスマホのカメラを向けた。夕焼けが好きだ、と言ったアイツの言葉が脳内を巡る。何を見ても、こんな風にアイツを通して世界を見るようになってしまったのはいつの頃からか。もう分からない位長い間に思える。けれどおれ達はまだ、世間から見ればただの同居人なのだ。おれはそれでは満足がいかない、法的にも早く連れ合いと認められたい。その事をもう切り出す時期だと思っていたのだったが、昨夜はその話をする前に何故か険悪になってしまった。
ドアに鍵を差し込む手が、我知らず震えているのが情けない。意を決して鍵を回し、ドアノブを捻る。玄関に足を踏み入れる。夕飯の、何やら炊いたような香ばしい匂いがする…いや、するのだが、部屋の奥に奴の気配がない。薄暗いのだ。キッチンの明かりが消えている。
リビングに続くガラスの嵌った扉を思い切り開いてダイニングに急いで目をやると、無人のキッチンには、ついさっきまで料理人の手で煮立てられていたらしい鍋がコンロに準備されていた。換気扇も弱く回っている。
しかし、キッチンの主の姿はなかった。
テーブルに目をやると、一人分の皿の横に紙切れが置いてある。良い予感は何もしない。折られた紙切れを開くと案の定、奴の手で書かれた文が飛び込んできた。
「マリモへ
てめェの道に、割り込んで悪かった
もう安心しろ
おれは、楽しかったよ ありがとな
サンジ」
氷の矢が喉を刺すような衝撃が走った。
布巾の上にきちんと裏返された皿の底を指で辿ると、アイツの不在が静脈から吸い上げられ、やがて心臓に達した。突然鳴った炊飯器の電子音が追い討ちをかけ、現実を取り落としそうになる。それすらも奴の罠なのだろう。おれには逃げ出す事を選べないのを知っての仕業か。
サンジ、おれはまだ何もてめェに伝えちゃいない。この関係に終止符を打ちたいんじゃない、おれは、名前をつけたかったんだ。
紙切れを握りつぶし、玄関を飛び出した。
飯は、まだ温かい。車もまだ持っていない。向かうなら駅だ。
息を継ぐのも惜しい。
走って、走って、大通りを横切り、駅前の商店街を突っ切った。続く人混みが踏切で途切れる。目を凝らすと踏切待ちの雑踏の中に金色の丸い頭があった。
「サンジ!」
力の限り絶叫する。
踏切の音がやんだ。
遮断器がゆっくりと斜め上に弧を描いて開く。
一斉に渡り出す人混みの真ん中に、動かぬ金色が振り返った。
息を切らし、精一杯手を伸ばした。これから先の未来全部に届け。そう思いながら。



error: