両翼は傷に深し

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翼が欲しい。そう思っていた。
いつからか?
記憶の底にあるのは、土砂降りの雨の中をレインコートを着て大きなバスケットを持って歩いていた、出来損ないの弱っちいおれ。早く、早く行かなきゃと気ばかり焦っても小さい足は歩幅も稼げず、ぬかるみに嵌ってもつれて転んだ。大きな犬が横取りしようと吠え立てるのを必死で庇い、重い門の向こう側にある、母のいるあの病院へ、翼があればすぐに飛んで行けるのに、と。

次の記憶は、断崖絶壁から見た、無慈悲に果てしない水平線。
翼があれば。翼さえあれば。こんな所で食うものもなく野垂れ死ななくていいんだ。あの空をゆくには想像もつかないだろう、飛べない生き物がどんなに無様に土の上で藻搔いているか。こんなに広い海にぐるりを囲まれて、晴れ渡った青空の下、なぜ生死を彷徨っているのか。
あの時おれに翼があれば、ジジィの足は失われずに済んだ。

バラティエの一行に出会ってから、そんな記憶はしばらく忘れていた。
呼び覚まされたのは、あの男のせいだ。
命知らずの、馬鹿な野郎だ。そう思ったのは正しかった。その第一印象通りに目の前で鷹の目に真っ正面から斬られやがった。寝転がったまま天を差して叫んだあの言葉が、記憶の深い所に刻み込まれちまった。二度と負けねェとか、バカでかい野望の宣言は荒唐無稽と笑い飛ばしてやれば良かったはずが、おれには笑えなかった。
そのバカでかい野望に近づいてゆく度に、アイツの背中に生まれてくるものが見えるんだ。傷のないあの背中に。
いつか生えて来るかもしれない、いやきっと生えて来るに違いない。あのデカい野望に辿り着くための大きな翼が。
アイツが翼を持てば、きっとルフィは高みへ飛べる。
そう納得しようと努力してみたこともあった。
けれど、腹の底にじっとりと疼くものが消えない。
記憶の沼の淵に立つ小さいおれが、羨望の眼でアイツをじっと見ているんだ。
そう思った頃から、微かな願望がいつの間にか育ち始めていたのを認めざるを得ない。

翼が欲しい。
アイツの隣に立てるほどの翼が。

 

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