Side ZORO
身体中に重く堆積した疲労が手足を縛り、身動きが取れない。動かせるのは目玉だけだ。ゾロは、霞む視界をなんとか動かして、勝負の行方を確かめようとした。しかし、もうもうと立ちのぼる土煙に遮られ、己が何処に居るのかの把握も危うい。
限界ギリギリまでゾロの精魂を吸い上げた大業物は、確かにあの化け物じみた鎧の隙間に一閃を与えた。脳髄にまで響くほどの衝撃がまだ記憶に新しい。手応えは確かにあったのだ。
――閻魔は……何処だ
身を捩ると全身の骨が悲鳴をあげるように軋む。てことは、おれはまだ生きている、そう実感した時だった。ずるり、ずるり、と何かを引き摺るような音が聞こえてくる。まだこの辺りに別の敵が潜んでいたのか、と思えど、何故かその音には生き物としての質量が感じられない。足元から何かが近づいていることだけは確かなのだが、ゾロにはもう見聞色を使う馬力が残っていないのだった。クソ、なんなんだ、そう思っているうちにそれはいよいよ足元に近づいてきたようで、黒い三角の形をした影が首を拗らずとも視界に映し出されてきた。土煙がちぎれた合間にちらりと見えたそれにゾロは思わず身の震えを感じ全身が硬直した。えも言われぬおぞましい空気、生気のない恐ろしく冷たい存在。
誰だ? 誰だてめェ……! 何なんだ…体が、動かねェ……!
叫ぼうとも喉からそれ以上声を発することはできなかった。土煙に乗ってすら伝わってくる『意志のない殺意』、こんなモノに対峙するのは初めてだとゾロは思った。地響きのような音とともにその影は、何か長いものを大きく振りかぶった。その腕の向こう側、大きな布を被った頭らしきものの隙間からチラリと目に入ったのは、空洞の二つの眼。ゾロは瞬時に察した。
なるほど、地獄へのお迎えか。
確かにおれはさっき言った。「地獄の王になってやる」ってな。
それもいい。閻魔を手にした時からこの瞬間の覚悟はしていた。
必ずルフィを海賊王にする。おれが地獄へ行く片道切符と引き換えならそんなことは安いもんだ。生きようが死のうがそれは結果だ。この妖刀が地獄でおれを王にさせるってんならきっと、天国の方にいるあいつからは見えやしないだろうが……どうせ落ちる地獄に少し早く行くだけのこと。
「てめェの野望はどうした」
ゾロの頭に、直接語りかける声がしたのはその時だった。
――あいつに勝って大剣豪になる日まで。
てめェはあいつに勝ったのか?
勝って、世界中に轟くほどの名を成したのか?
天国のやつに聞こえるくらいに。
地獄から奴を斬ることはできねェぜ。
聞き慣れたクルーの忌々しいあの声と、自分自身の声が入り混じった不協和音が脳を揺らす。
てめェの何もかもがいけ好かねェが、おれは知ってんだ。てめェは『生きて』約束を守る男だろ。だから覚えてるか? おれの言ったあの言葉。
不協和音は、次第にハッキリと一人の男の声を顕してきた。
「お前がおれを殺せ」
止まれ……やめろ!!
絶叫したつもりだった。しかし『意志のない殺意』は瞬時も反応することなく高く掲げた腕を振り下ろし始めた。全身は硬直したまま、心臓に向かう血流の音だけがどくどくと体内を暴れまわっている。正確無比に己の首を目指して落ちてくる鎌を凝視しながらゾロは思った。生きる。
生きる。 生きる。 生きる。
海賊王になったルフィを見届ける。おれ一人じゃない、全員でだ。
あいつがいなきゃならねェ。絶対に。
自刃なんて許さねェ。
てめェの最後の火は、おれが消す。だからどんなに醜悪な悪魔になろうがおれの前にその首を晒すまで生きて待ってろ。
黒い雷が腕に落ちた。
激しい衝撃音とともに、雷鳴はバリバリと腕を駆け上り、太い幹となって天に伸びた。手も足も、上肢も下肢も全てがバラバラに砕け散ったかに思えた。視界は黒く染まり、なんの感覚も消滅して、ゾロは意識を落とした。
何かに強く引っ張られている。
上も下もわからない。暗闇だ。地上なのか、地下なのか。ただ引っ張られた身体が何処かに向かっていることだけは分かる。
殺せ。おれを殺せ。
首筋に、耳たぶに、直接描かれたかのように、ハッキリとしたその言葉が纏わりついて離れない。夢中で空を掴み、言葉を毟って確かめようとしたが無駄だった。おれの体が向かう先から轟々と生温い風が吹いてきて、その度にバランスを失い、コントロールの効かない体をただ空間に投げ出すほかなかった。
『もしおれが正気じゃなかったら』
あの野郎はそう言った。正気じゃねェとはどういう事だ。あの時はそんな事を考える余裕なんてなく、ただその後の約束を受け止めるのみだった。
けれど何故かいま、奴の考えが手に取るように分かる。己がいかに役に立つかどうか。もちろんルフィを海賊王にするという目的のためにだ。そのために自分自身を手段にするのを厭わない野郎の考える事はわかりきってる。正気だろうがなんだろうが、自分が妨げになるというなら誰をも傷つけることなく消えるつもりなのだ。正気であれば己の手を使えもするだろう、けれどそれが叶わないなら、手を汚させる誰かが必要だ。
あのキンキラした頭の中で選んだのがおれか。
何もかもが相入れない。ただ一つの点を除いて。
ルフィを海賊王にする。
一ミリも違わず一致するのだ。それだけに、余計に腹が立つ。選ばれたおれが、それを拒む余地なんてない。卑怯な手だ、とも思った。けれどそれ以上に、そんなふうに使われようとする命を惜しむ自分を認めざるを得ない。いま芽生えた思いだろうか、いやそうではない。それなら象で消えた野郎にあれほどムカつく義理はない。奴の命は奴のものであっても、終焉の火を託す人間に選ばれたのならもうそれは、てめェの一部に取り込まれたってことだ。そうだろ。
地獄はおれが預かった、だから地を這ってでもてめェは生きろよ。これは約束だからじゃねェ。
おれの願いだ。
引っ張られる力が急激に強くなり、息もできぬまま暗闇を体が貫き走った。
◇
目を開けば、板の貼られた天井があった。
話し声がする方へほんの少し顔を向けると、キンキラ頭のぐる眉が傍であほヅラを振りまいている。
ふとこっちを見下ろした青い眼がおれを捉えた。しばらくじっと見開いていたその眼はようやく戻ってきたかとばかりに瞬いて、優しげに緩んだ。
「お目覚めかよ、クソ剣士」
いつもの忌々しい声が降る。忌々しいが、あながち不快でもないその声にむしろ安堵した自分に驚く。どうやら帰って来れたらしい、地獄の王にはまたなりそこなったみてェだが。
かつてないほどの安らかな睡魔が再び訪れ、おれはまた目を閉じた。