秘花―Another Story-

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サンジ視点の「秘花」。その後のエピソードも少し……
(前話「秘花」を読んでからお読みくださいね!)


 その男は、確かに異質な存在だった。

 レディと一緒に最初に店に来た時のことは正直言って印象にない。女連れの野郎については、自動的におれの視界からは削除されると決まっている。あいつが一人でやって来た時、わずかに記憶にあったのは、あのオレンジの髪をしたレディのお陰だ。
 来る客は殆どがレディばかりのおれの店に、野郎一人で食いに来たのは、あの男が最初だった。そしてあろうことか、二度、三度、四度……と繰り返し通うようにやって来るとは、予想だにしなかったのだ。
 いかにも体力自慢の仕事をしていそうなガタイの良さに、うちのランチの量じゃ明らかに足りないだろうと思ったものの、毎度黙々ときれいに平らげ、食い終わると必ず両手のひらを合わせて「ごっそさん」と呟くのをおれは見ていた。何とも、生真面目な所のある奴だと思った。そもそも、おれを探していたのも配達の不備にクレームを付けなかったなんてささいな事だったのだから驚きだ。いちいち二年も前のそんな事を覚えているような、律儀で実直な男なのだろうとは想像できた。
 何度目かにやって来た時に、ふと思った事がある。
 美味い店なら他にもあるだろう。なのに何故、こうも毎週の如くうちに通って来るのかと。口数も少なくさほど会話もしない男だったが、何かを脱ぎ捨て解放されたかのように寛いでいるのが分かった。この男は、店に来る事が日々の憂さ晴らしなのかも知れない。おれの料理がそんな事にひと役買えているのなら、料理人冥利に尽きる。そう思っていた。

「お前、配達の仕事、今も?」
「……ああ」
「大変だろ? 暑い日も雨の日も、重ェ荷物抱えてあちこち走り回ってよ」
「まあな。けどもう慣れてる」
「そりゃそうか。お前、体力だけは有り余ってそうだもんなァ」
「だけは、って何だ」
「いや悪ィ、でもどう見てもガッツリ鍛えたいい身体してやがるじゃねェか」
「筋トレは日課だが、荷物運んでりゃ勝手にこうなる」
「そうか? ヒョロいやつも結構いんぞ」
「まあ後は……昔から剣道もやってるからな」
「剣道? へえ……成程ねェ」
「何が」
「や、なんか、らしいなと思ってよ。『道』の付いたやつを何かやってんじゃねェかなと」
「……そう見えるか」
「おう、毎度必ず手を合わすクソ律儀なとことか、な」
「そりゃ当たり前だ」
「それに二年も前の礼を言いにおれを探してた」
 そう言って奴の目の前に指を指すと、一瞬、男は固まって少し押し黙った。
「ん……?」
「…………やっぱ、迷惑だったか」
「へ? 迷惑? なわけねーだろ」
「……なら、良かった」
 押し出すように、少し苦しげにそう言ったのが、心に引っかかった。

 あの時の答え合わせだったのだ。

 ゾロが、雨に濡れて店の扉を開けたあの時に。
 ずぶ濡れで、息を弾ませて来た男がたまたま気まぐれに立ち寄ったのである訳がない。コイツなりの、何か筋を通さねばならない、のっぴきならぬ理由があって来たに違いなかった。
 おれはその勢いに、一瞬気圧された。
そして、ゾロが吐いた言葉は、一文字ずつずっしりと、おれの胸に深く刺し込まれたのだった。

「おれは諦めが悪い。だからてめェがお呼びじゃなかろうがこれからも通う」

 静寂が、一瞬とも永遠とも感じた。
 ゾロがおれの店にやって来た、全ての理由がするすると繋がった。
 まさかとは思った。けれど薄々感じていた事がある。あの日、ゾロが苦しげに「迷惑だったか」と尋ねたあの時。
己の脳内に浮かんだあまりに酔狂な思いつきを、あの時無理やり揉み消したのを思い出す。
 ここでどんな言葉を使えば正解なのか。拒むのか。おれは。それとも。

「そんだけだ」

そう言ってすぐにゾロは外へ出て走り出した。おれは反射的に締まりかけた扉を開けて外に飛び出し、ゾロの後を追って走った。雨粒が強く顔を打つ暗闇を、見失うまいと必死で走った。
 走りながらゾロの覚悟を思った。あの言葉を言うまでに、どれだけの時間を積み重ねてきたのだろう。どれだけの重さと決意でおれに伝えようと決めたのだろう。その重さに叶うほどのものを、おれは、あいつに返せるのだろうか?

 交差点の前でようやく止まったゾロに追いついて、おれは息を吸って言った。
「待てよ」
 肩で息をしていたゾロは、ゆっくりとこちらを向いた。暗がりでよく見えないが、こいつの目を見て言わなければ、そう思った。
「てめェには謝らねェぜ」
「わかってる」
「それでも、また来るのか」
「…………そうだな」
「大した野郎だ」
 心底、そう思った。
「おれァ、レディのために生きてきたが……てめェみてェな奴は初めてだ」
「…………」
「強ェんだな」
「強い……?」
「ああ。もしおれだったら、耐えきれねェ」
 馬鹿と言っていいほど真っ直ぐで、自らブチ砕いた破片に責任を持てる男。それを強いと言わず何と呼ぶのだろう。
「……は」
「謝らねェが、悪いとは思う」
「…………」
「けど、来てくれんのは悪い気がしねェ、おれは歓迎する。お前がそれでもいいなら、な」

 お前に捧げるに相応しい言葉は今は分からない。これが精一杯だ。こんな不甲斐ないおれを、それでもお前は。
 もし歓迎する事が許されるなら。
 少しの間、猶予の時間を与えて欲しい。
 お前と言う人間に相応しくなれるまで、少しずつでも努力する。努力したいと思う。努力したいと思わせてくれたお前を、大切にしてもいいだろうか。

「……礼を言う」

少し頭を下げてから、ゾロは顔を上げた。その瞳を形容する言葉が見つかったのは、ゾロが宵闇に消えていった後の事だ。

 少し潤んだ翡翠のような瞳だった。

 次の週。
 混雑のピークが過ぎたランチタイム。普段ならそろそろやって来る頃合いだ。

 「てめェがお呼びじゃなかろうがこれからも通う」

 そう言ったが本当に、またゾロは店に来るだろうか。
 いつも以上に時間が気になり、ついちらちらと時計を確認してしまう。お会計お願いしまーすと声をかけられて我に返り、慌ててレジへ向かい対応していると、カランカランと扉の開く音が聞こえた。
 いつものようにゾロは店にやって来た。ブレることのない覚悟におれは感服した。ひょっとすると、もう二度とここに来ないかもしれない事も考えたのだ。しかしゾロはチラリとこちらを伺うと無言でいつもの席に陣取り、日替わりランチをオーダーした。

 おれは意を決して言ってみた。
「お待ちどう……なあ、お前、来週の休みはいつだ?」
「あ? ……金曜だ、いつも通り」
「そうか。じゃあ、おれも金曜は休みにする」
「は?」
「ゆっくり話をするのも、良くねえ? ちょっくら仕入れたモンもあるしよ」
「……」
 ゾロは呆けたように口を開けていた。無理もない。あの日からまだ幾らも経っちゃいないのだ。おれが何を言っているのかわからないという顔を見て、再び念を押した。
「だからよ、店閉まってても入って来い。待ってる」
「……ああ……分かった、けど、もし、おれに気ぃ遣ってんなら」
「そーんなんじゃねェ。とにかくいいな? 金曜だ」
 狐に摘まれたような顔をしたゾロを横目に、おれはほんの少しの浮遊感を抱えてキッチンへと戻った。

 そして金曜。

 休日の店にやってきたゾロは、訝しげにゆっくりとドアを開けて恐る恐る入って来た。
「よおいらっしゃい」
「……ほんとに休みなのか」
「そう言ったろ。だから今日は何処でも好きなとこに座れよ」
「……」
 まだ警戒するかのように辺りを見回しながら、ゾロはいつもの奥のカウンター席へ腰を下ろした。
「ははッ、やっぱそこなんだ」
「他んとこじゃ落ち着かねえ」
 そう言って、少し安堵したようなゾロを見ると、家に戻った大きな子犬のように思えてじわりといじらしくなる。
「んじゃ、ようこそ特等席へ、お客様」
 用意していた酒瓶と、グラスを二つ、つまみのスモークサーモンとナッツをカウンターに置いて、自分もゾロの隣に陣取る。
「酒?」
「ま、一杯」
「……車なんだが」
「帰る頃には醒めるって。ほら」
 ゾロのグラスになみなみと琥珀色の液体を注ぐ。まだ訝しげな顔をしているゾロの手にグラスを握らせ、自分のグラスにも注いだ後、軽く持ち上げる。
「とりあえず乾杯」
 キン、と音を鳴らすと、観念したようにゾロも液体を少し口元に流し込んだ。
「こないだ仕入れた酒。どうよ?」
「……かなり辛めだな」
「お前向きな味だと思うんだけど?」
「……」
 ゾロはチラリとこちらへ視線を投げて、二口目をまたグビリと煽った。
「美味ェだろ?」
 そう尋ねてみると、それには答えず口元を拭ってゾロは言った。
「で、どういうつもりだ」
 ゾロは、コン、とわざと音を鳴らしてグラスをテーブルに置いた。
「わざわざ休みを合わせてまで酒で詫び入れようってか」
 視線はグラスに落としたまま、声色に険しさを滲ませてゾロは言った。
 ……あ、やっぱりこれは気分を害しちまったか。
「怒んなよ……詫びじゃねェって」
「じゃ慰めか」
「違ェよ!……そんなんじゃねェ。ただ、もう少し話してェんだ。この前お前には謝らねェって言ったろ。その続きを言っときたくてよ」
「続き?」
「……お前を歓迎する、って言ったのはよ、ただ店に来るのをってだけじゃなくてさ、なんて言うか……努力したくなっちまって、な」
 ゾロはこちらを真っ直ぐに見据えてきた。自分を傷付けるかもしれないどんな言葉も真正面から受け止める準備は、とうに出来ているのだろう。
「お前の覚悟に相応しくなれる努力を、してェんだ。だから少し、猶予が欲しい」
「猶予……?」
「時間がかかるかも知れねェ。けど、そうでないと、お前に見合うようなおれに至らねェと思う。少しずつだけど、努力させてくれねェか」
 ゾロは黙って聞いていた。
「お前が抱えてきた時間に比べたら、おれの努力なんて、笑い飛ばされちまうかもしれねェ、けど」
「おれは、おれが勝手にやってるだけだ。合わせる必要なんかねェ。てめェが努力する必要もねェ。覚悟だなんだってそんな大した事じゃねェ」
「いいや、そんな訳ねェ。ゾロ、二年は長ェだろうが」
「……!」
 急に押し黙ったゾロの顔を覗き込むように近づいて諭してみる。
「長ェよ、二年は」
 険しさを眉間に載せていたゾロの眉がピクリと動いた。キツく結んだ口元の端が、僅かに震えている。そしてしばらくの間続いた沈黙のあと、少し掠れた声でゾロは言った。
「……てめェの知った事じゃねェ」
「ゾロ、でもおれは、想像くらいはできるさ。それがどんなに重ェ事かをよ。だから努力させて欲し」
「おれの為になんて何もすんな!……何もしなくていい、てめェは」
 いきなり声を荒げて叫んだゾロに一瞬、怯んだが、これだけは言わなくてはならないと、腹に力を込める。
「聞いてくれゾロ、これだけは言っとく。おれが努力したいと思ったのは、おれ自身がそうしたいからだ」
「おれの為に努力する必要なんてねェ、今まで通り客の一人だと思え」
「なあ、おれ『らしく』させてくれねェの? おれは、おれらしくありたい。おれがしたい事がいま、見つかった。お前に相応しくなる努力をしてェ。そう思わせてくれたお前を……大事にしてェんだよ、な、ゾロ」
 そう言うとゾロは目を見開いた。
「お前が抱えてきた荷物を、おれにも少し分けてくれねェか?」
「…………本気か」
「まだおれは素面だ」
「地獄の扉かもしれねェぞ、てめェにとって」
「さあ、どうだかな? でもてめェとならそれでも別に構わねえ」
 そう言って歯を見せて笑って見せると、ゾロは少し呆れたような、諦めたような顔をして、ふうと息を吐いた。
「予想以上に阿保だな、てめェ」
「褒め言葉、傷みいります」
 するとゾロはグラスに残った液体を一気に煽り、徐ろに立ち上がった。
「おい、まだ帰んなって…………」
 ゾロの手が突然首元に伸びてきた。かと思うと凄い力でぐいと引っ張られ、思わず勢いでおれも立ち上がらせられた。そのままゾロは奪うように唇に噛み付いて来た。こじ開けられた口の端から濃いアルコールの香りを放つ液体が流れ込む。液体と唾液が混じり合ってぐちゃぐちゃになった唇を離そうとすると強い力で身体ごと締め付けられた。押し付けられた唇は、沸点を超えた情念が行き場を求めて悶えるように震えている。
 その震えが突然、おれの深い内側の何かを激しく揺り動かした。ゾロの頬を両手で掴むと、ふいに唇を離したゾロはハッとしたようにおれを見た。その瞳はもう、自身の熱に耐えきれず溶け始めている。
 その時思ったのだ。おれはいずれこいつを抱くだろうと。

「……おれを傷付けようとした?」
「……だから、てめェには地獄だと、言った」
「逆効果な」
 熱い唇にそっと触れ、逃げ腰の舌を捕らえて甘く喰んだ。

 外では風が海鳴りの如く鳴り、湿った雨粒の匂いが部屋を満たし始めた。
 嵐が来る。世紀の恋の嵐がやって来る。

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