秘花

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ゾロの片恋シリーズにて書いたサンゾロです。現パロ。


 いつもの道を歩く。

 薄紅の帳が一帯に降りる頃。住宅地の途切れた辺り、耕すのを忘れられた荒れ田を過ぎ、立ち入り禁止の看板が立つ溜池の鉄柵が並ぶ道を通り抜けると、放置された竹林がザワザワとしばらく続く。若竹と老いぼれた竹が折り重なり、雑多な枝の連なりを横目で眺めていると、ふとある一角に目が止まった。
 短い、小さめの枝の端に、白いものが付いている。
 何だこれはと近づいてよく見ると、それは白くて細い花弁をひっそりと広げていた。
「笹に花……?」
 さやさやと風が吹く。枝が揺れるとその花も揺れる。風は、夕暮れの熱を帯びながらもほんの少し冷気を含んで遠い空へ抜けた。

 雨脚の強くなってきた午後。
 バランスを崩して運んでいた荷物がぐらりと揺れたあと、水をたっぷりとしたためたアスファルトにぐしゃりと落ちた。
「おい何やってんだ!」
 すかさず主任の怒号が飛んでくる。
「すいません」
「バカ野郎、すいませんで済むか! すぐ引き上げて中身確認しろ」
 言われるまでもなく荷物を拾い上げ、伝票を確認する。内容物は『果物』となっていた。
(やべ)
 段ボールの表面は濡れて角はぐにゃりとつぶれている。もし中身に影響がなかったとしても、これはクレームを逃れられないに違いない。
 配達先は目の前のレストランだった。もうこの状態で直接手渡してその場で確認してもらうのが早い。クレームを言われたらそれはその時のことだ。腹をくくるしかない。

 レストランの裏手のドアの呼び鈴を押す。
「へーい」
 調子上がりの緩んだ声がインタホンから聞こえた。
「配達です」
 出てきたのは、予想外に若い従業員だった。
 仕込みの途中なのか、白いコック服を着こんだ男が現れた。この小ぶりのレストランに雇われているのか。オーナーはきっと別にいるのだろう。
「あの、ちょっと荷物落としちまって。中身確認してもらえませんか」
「あ?」
 若い男は、段ボール箱を一瞥し、しばらく眺めた後、
「別にいいよ。この雨だしな。ごくろうさん」
 そう言って段箱の蓋を開けもせず、よっこらせと呟いて荷物を持ち上げた。
「いやでも、濡れちまったし角がつぶれてるんで」
「あー、いいいい、そんなの。それよりな、これからもっと雨脚が強くなるらしいぜ。さっき天気予報のお姉さんがそう言ってた。気ぃつけて帰れよ」
 そんな事をその男は言ったのだ。
 金色の髪が顔の半分を覆っていて、良く見えなかった表情がふと顔を上げてこちらを向いた瞬間に、おれの目はその青い色をした眼に釘付けになった。

 今までの人生で、青い目をした男を見たのは初めての事だった。
 
「おいどうした?」
 声をかけられ、ハッと我に返った。
「いや……なんでもねェ」
「?」
 訝し気に眉をひそめる男の前でこれ以上言葉を出せる気がしなかった。じゃあ急ぐんで、とおれは雨の中を車へと走り出した。走る必要はなかったが、いてもたってもいられなかった。走ってみれば平常心が戻ってくると思いたくて、猛ダッシュで車の扉を開け助手席へ乗り込んだ。
 急に戻ってきたおれに驚いたのか主任が慌てて尋ねた。
「おい、さっきの荷物どうだったんだ、客にちゃんと謝ったのか」
「あ、いや別にいいって言われて」
「何? お前、客にその場で中身確認してもらったんだろうな?」
「いや蓋開けてなくて」
「ああ? それでいいって言ってたのか?」
「うす」
「……まあ客がいいってんならしゃあねえが、あとからセンターにクレームいれてくる嫌がらせ野郎もいるからなあ」
「あいつはそんなん言わねえ!」
「……は?」
 突然声を荒げたおれを見て、主任は目を丸くした。
「いや、さっきの奴は、そんなん言わねえ、と、思う」
「なんだお前の期待かよ、なんでそんなん分かる」
「……勘」
 おれが折れないのが不可解と言わんばかりに主任は呆れた苦笑いを吐いた。
「ま、後でもし何か言ってきたら責任者はお前って事だからな」

 さっきの男の言ったとおり、雨脚はさらに強まって来た。フロントガラスに打ち付ける水滴がだんだんと滝のように流れ、ワイパーが忙しく拭い続ける。
 灰色に包まれた午後の空が、飽き足らず雷鳴を連れてくるのはまもなくなのだった。

「へえ、それが最初の出会いなんだ」
「……ああ」
 手にしたグラスの中の液体を揺らすと、カウンターを照らすランプのオレンジ色の灯りも一緒に揺れた。
「それを覚えてなかったのね? あのコックさんは」
 ナミの遠慮のない質問に、一瞬喉が詰まった。
「……そうだ」
「ふふ、すっごい不満そう」
「ッ、るせェ」
「でも、その時あんたはただの配達員だったんだし、荷物受け取っただけならそりゃ覚えてないんじゃない?」
「そうかもしれねェが」
「で、その次に会ったのが?」
「二年後」
「覚えてないでしょ普通」
「普通?」
「そうよ、普通……あ」
 何か察したナミは、一旦天井を仰いだあと、ふう、と大きな溜め息を吐き出した。
「あんたは普通じゃないんだったわ」
「どういう意味だ」
「ううん、ごめん、悪い意味じゃないわよ、たださ、それだとちょっと心配なワケ」
「何が」
「んー……」
 そう言ったきり、ナミは暫く黙ってグラスを弾いていた。
 その少しの沈黙の間、おれは二杯目のグラスを飲み干した。三杯目を注文しようとした時、徐ろにナミは席を立った。
「そろそろ帰るけど……あんた、あんまり深酒しない方がいいわよ、念のため、忠告」
「あ? まだたった三杯目だ、忠告される謂れはねェ」
「そういう事じゃないけど……ま、いいわ、一応あたし言ったから」
 後ろ手に軽く手を振ってナミは店のドアを開けて出て行った。それを見送って再びじんわりと苦味のある琥珀色の液体を喉に流し込む。酔って逃れられればと何度願ってみれど、アルコールに対して頑丈に出来ている己の身体はそんな甘い赦しを与えてくれやしない。四杯目、五杯目と進めてもランプの色もテーブルも、自分の手のひらも、何も変わりはしないのだ。そう、だからましてやこの胸の内を掻きむしるようなささくれも、消える事なくガンとして有る。有り続ける。それをもう認めなければならない。
「……は、我ながら執念深ェ」
 

 あの男との出会いは、自分にとって鮮烈な痣となって残り続けていた。
 その理由が知りたくてもう一度あの配達先のレストランを訪れようと試みたが、どうしても辿り着けなかった。だいたいの地区は分かるものの住所など覚えちゃいない。ダメ元で、かつての同級生に聞いてみたところ、もしかしてあのレストランかしらと言い出したのがナミだった。
 こじんまりとしたそのレストランは、近辺では有名な店だったらしい。それも昼飯が女子に人気でたまたまナミが何度か行った事があったと言うのだった。あんたが美味しいものに興味持つなんてねェと訝しみながらも、その店へ連れられて行った時、店を見渡せど青い目の男は見つからなかった。長い髭を三つ編みにした変わったジジイがオーナーだった。ぶっきらぼうだったが確かに料理は格別に美味かった。それでおれは満足したと納得したらしいナミはその後も何度か店に連れて行ったが、例の男はいつ行っても現れなかった。
 おれのそもそもの目的は料理ではなかったのでついに業を煮やしてそのオーナーに聞いてみた。すると確かに青い目の男はその店にいたらしい。そしてその男は独立して、新しく店を持つので出ていったと言った。何故だか酷く落胆したおれをナミは不思議がった。無理もない。当のおれ自身が一番不可解なのだから。
 そのオーナーに男の新しい店の場所を尋ねればきっと教えてくれただろう。けれどおれは尋ねなかった。どうしてか、知ってしまえばもうはどめが効かなくなる気がして恐ろしかったのだ。そんな事が怖いなどと思うのも生まれて初めてだった。自分の中に得体の知れない自分が芽吹いてくるのを強く感じ取っていた。
 そんなある時。
 ナミが急に連絡してきて言ったのだ。
「あんたの探してた人の店、わかったわよ」と。

 その店は前の店よりさらにこぢんまりとしていた。カフェと書いてあるが昼飯や夜飯も提供しているらしい。入り口前の看板には小花が設えてあり、何やら小洒落た外国語が書いてある。
「へえ、おっしゃれな店ねえ、さ、入ってみよ」
 そういって気軽にナミは木の扉を押し開けたので慌ててナミに付いて店の扉をくぐった。

「らっしゃーい」
 店の奥から、男の声が聞こえた。
 中は数個のテーブル席と、カウンターのある小さい店だった。店内に客はおらず、カウンターに人影も見えない。
「あら、まだ早かったかしら」
 すると、カウンター奥からひとり、男が現れた。
 それは、まさにあの日目の前にいた、白いコック服を着た金色の髪をした男だった。
「いえいえ今オープンしたところでございます、ようこそレディ。お食事でよろしいですか?」
 カウンターから目の前に出てきた男は、ナミに向かってうやうやしくそう言った。目に入ったのはレディと呼んだナミだけらしい。
「えーっ、と……ええ、ランチで。二名」
 そう言ってナミはちらりとおれの顔を見た。
「あー、二名様ね。ではどうぞ奥のテーブル席、お好きなところへ」
「いや、カウンターで」
「え?」
 おれが間髪入れずそう言うと、ナミと男が同時におれの方を振り向いた。
「カウンターでいい」
「は……はあ、もちろん構いませんよ、どうぞ」
 何あんた、とブツブツいいながらナミもカウンター席へ腰をおろした。おれは一番奥に陣取った。ちょうど目の前がコンロの見えるガラス壁になっていて、中の様子が……男の姿がよく見える席に。
「今日はご来店ありがとうございます麗しいレディ、日替わりランチでよろしいですか?」
「あ、ええ。日替わりでいいわ」
 そう言いいながらナミはおれを肘で小突いた。
「そっちの方は?」
 男は、急にぶっきらぼうな調子でおれの顔を見ずに手元に視線を移した。ずいぶんと対応が違い過ぎる。
「ああ、同じで」
 かしこまりました、と返事だけは寄こし、男は支度を始めた。
 隣のナミは肘を付いてその様子を眺めながら小さな声でささやいた。
「ねえあの人なんでしょ? 探してた人」
「……ああ」
「なんか言えばいいのに」
「いや、いい」
「せっかく探してあげたのにィ」
 ガラスの仕切り越しに見える男は、忙しく手を動かしている。その手さばきは見事で、まだ出来上がっていない料理の味をすでに保証しているように思えた。俯き加減の横顔は金色の髪が目の半分を覆っていて、見えている下顎には同じ色の髭が蓄えられ薄い唇はなにやら機嫌よく口笛を吹いている。
 なんとかしてあの青い眼を見たい一心でガラスを覗き込んでいると、ふいにこちらへ向いた男と目があった。一瞬、呼吸を忘れた。おれを釘付けにしたあの青い眼に再び撃ち抜かれたのだ。
 僅か一秒にも満たない束縛だったがそれは心臓を素手で掴まれたかのような強烈な鼓動をもたらした。そこから全身に駆け巡った血は得体の知れない熱を皮膚に絡め、上肢から首筋を昇り顔全体をうっすらと湿らせた。けれど男はすぐに、ふっと手元へまた視線を戻してしまった。急に束縛から解かれ、おれは上気した皮膚を隣のナミに悟られまいと、努めて静かに息を吐き、再び俯いた男の横顔をただひたすらに目に焼き付けようと努めた。

「お待たせいたしましたレディ。日替わりランチでございます」
 カウンターから出てきて料理を運んできた男は、またも仰々しく礼などしつつナミの前にプレートを捧げるように置いた。
「わあ、美味しそう! 綺麗~!」
「あなたの美しさに叶うかわかりませんが、愛を込めて作りましたレディ。お口に合うと嬉しいのですが」
 なんとも甘ったるい言葉を並べ立てた男は、おれの前には無言でプレートを置いて、その後またナミに向かって手を胸に当て大げさに礼をして見せた。立ち去ろうとした男にナミは声をかけた。
「ねえ、あなた、以前に別のレストランで働いていたんでしょう? そこのオーナーがあなたは独立して店を出したって言ってたわ」
 すると目を見開いた男は嬉し気に笑みを浮かべた。なぜか無邪気な、子供のような笑顔だと思った。
「レディ! なんと、あのレストランにも来てくださってたなんてこれは奇遇だー! 運命かもしれない! 感謝のしるしに食後のデザートは無料でサービスさせていただきますとも」
「あら! それは嬉しいけど、この人がねえ、あなたを探してたんだって」
 突然ナミはおれを指さして言ったので、おれは一瞬飲んでいた水を吹きそうになったのを耐えた。
「は?」
 おれの方を向いた男はいかにも不審げに眉を寄せた。よく見ればその眉は不思議な渦を巻いているのに気付いた。そしてこの男は、徹頭徹尾、女と野郎に対しての格差をつける奴らしいことを察した。
「おれを? 探してた?」
「……いや」
「探してたんじゃないの? あんた」
 畳みかけるように尋ねるナミを精いっぱいのけん制を込めて睨みつけるが、全く意にも介していないようだ。もちろん探している理由もなにも、詳しくナミには話しちゃいないのだからさもありなんだが。
「えーと、お客さん、どこかでお会いしましたか?」
 言葉こそ丁寧だが、いかにも野郎に探されて良い気はしないというのがあからさまな態度だ。あの配達の時の柔らかな物腰と、全く違うこの男の側面を見た気がした。
「ああ……以前、あんたのいたレストランに荷物を届けたことがある。配達で」
「あ? 配達? あんた、配達員さん?」
「ああそうだ。あの時大雨が降ってきて、荷物を落としちまったんだが、そのままあんたがクレームなしで受け取ってくれた」
「…………ふーん……?」
 男は眉間の皺を深くして、腕組みをしながら思い出そうとしているようだった。しかしこちらの願いはかなわず、記憶には全く残っていない様子だった。
 またも鋭い落胆が喉元を走った。
「そりゃいつの話?」
「……二年くらい前だ」
「二年? ……はははッ、そいつァずいぶん前の話だなあ。悪いがさすがにそりゃ覚えちゃいねえよ。おれが覚えてるのは麗しいレディのお客様だけでね。いやあ悪ィね」
 男は口角を片方だけ挙げて申し訳なさげに手を振った。
「まさか、それを詫びるためにおれを? 律儀にも程があるってもんだよお客さん」
 男はあははと笑いながらそれじゃあレディ、どうぞごゆるりとお過ごしを、と言い残してカウンターへと引っ込んだ。
「……あんた」
 ナミが声を潜めて囁いた。
「彼を探してた理由、それだけじゃないわよね」
「あ?」
「ふう……厄介な事にならないといいけど」
 
 店内は、次々と訪れる女性客であっという間に席が埋まっていった。忙しくカウンターとテーブルを行き来する男は、他の客にもナミの時と同じように愛想を振りまきながら大仰な賛辞でもてなし続けていた。一人でランチタイムをこなすのは大したもんだとも思ったが本人はいたって楽し気に生き生きとしている。もはやこれがこの男の天職なのだろう、そう思った。しかしそれにしても、あからさまに女性至上が過ぎる。
 食事を終えたころ、絶妙のタイミングで男はすっと皿を下げ、ナミに(だけ)声をかけた。
「デザートをお持ちしますレディ。お飲み物はコーヒー紅茶、いかがいたしますか?」
「あらありがと。そうねえ。コーヒーでお願い」
「かしこまりました」
 そう言った後、ほんの少しの間の後で、男は笑みを消してこちらに無機質に尋ねた。
「そちらの方は?」
「ああ……コーヒーでいい」
「かしこまりました」
 取り付く島もない、という態度だ。
 ほどなくして運ばれたデザートはいかにも女が好みそうな繊細な飾り付けがされ、花などまで添えられている。同じものがおれの前にも置かれたが、よく見るとどうもナミの皿とどこかが違う。
「わあ素敵ねえ。オレンジの花なんて、あたしに気を遣ってくれたのかしら~」
 上機嫌でナミは盛り付けを楽しんでいるが、おれの皿の上には何度見ても花など添えられていない。そして心なしかケーキの横に盛られたアイスもナミの大きさの半分ほどに見える。男の徹底ぶりにむしろ感心して思わず笑いが込み上げた。
「あんた、何笑ってんのよ」
「あ? いや、何でも」
 同時に運ばれたコーヒーを口にすると、ふくよかな味わいが広がり、実に美味い。飾り付けはともかくも、先の食事もデザートも、およそ街中の小さなカフェで出されるものとはとても思えない、複雑で深みのある味付けだった。ひと言でいえば絶品、だ。
 食事でこれほどまでに満たされるのは初めての体験だった。
 そしてそれを作り出したのが、たったひとりの男の手だということに、感じたことのない関心が湧き起こって来た。
 
「とっても美味しかったわ、ごちそうさま」
「それは光栄ですお美しいレディ! ぜひまたお越しください、首をながーくしてお待ちしております」
 男は満面の笑みでナミに向かってお辞儀をした。何か言わなくていいのかとばかりにナミはまたおれを小突いた。しかし何か言ったところで、この男はしっかりと男女格差をつけて慇懃無礼な態度で送り出すだろうことはもう目に見えている。金を払い、ナミの後について店の扉を押し開けて出ようとすると背中越しに「ありがとうございましたあ~!」という大きな声がかけられた。それはナミに対しての呼びかけだろうに、後ろ髪をひかれるとはこのことかと思った。
 おそらく、おれはまたこの店に来るだろう。今度は一人で。なぜかそう強く思った。

 次にその店を訪れたのは一週間後のことだ。
 カラカラと鐘の音と同時に扉をあけると、店はまだランチの後のおしゃべりタイムを堪能している女性客でいっぱいだった。男はというと、相変わらずくるくると店内を忙し気に接客していて、振り向きざまにおれを確認すると一瞬、あ、という表情をした。そして明らかにおれの後ろに連れの女かいるかどうか視線で確認したようだ。実に清々しいほど素早い。
「らっしゃい……どうぞ、空いた席へ」
 あからさまに失望の声を滲ませて男は言った。空いた席といっても、カウンター席がかろうじて一人分だけだ。それは以前おれが座った奥の席で、女性客の間を縫っておれはまたそこに陣取った。
「えーっと、おひとり様で?」
 メニューをもって現れた男は、不審そうに尋ねた。
「ああ。ランチ、日替わりで」
「かしこまり」
 ました、の声が小さくささやくように消えて男はとっととカウンターへ引っ込んだ。
 しかし男はそれほど待たせることもなく、ほどなくして日替わりランチのプレートを運んできた。盛り付けは雑なところもなく丁寧で、手を抜いている部分は見当たらない。
「おひとりでまた来られるとはね?」
「……悪いか」
「いや別に。ただこの店に野郎、いや、男性がおひとりで来られるのはまずないんでね。ちょっと驚いたもんで」
「そうか」
「……あの」
 男はまだ何かいいたげに佇んだ。
「何か」
「この前の、配送の時の話、あれはもう済んだんで」
「ああ」
「もう、詫びとかいいんで」
「わかってる、ただ食いに来ただけだ」
「ああ……そりゃどうも、じゃあ」
 戸惑いがちに男はそう言った後、他の客に呼ばれて席を離れていった。
 飯はとにかく美味い。食後のコーヒーも。そして、女受けする店だけあって端々の飾り付けもメニューも、この男のセンスが存分に発揮されているかのように思える。全てが、想定される女性客のための世界で、全てが完成されている店だ。その中心であの男は実に楽しげで、満足気だ。
 どうしたってそこにいるおれは『異物』だろう。
 それでもおれは、次の週も、その次の週も、休みの日の度に店を訪れた。三度目まではまだ訝しんでいた男は、いつ頃からかおれの来る日を想定してカウンターの最奥席を開けておくようになった。

 少し昼の遅い時間に来た日。ランチタイムがほぼ終わり、喋りまくっていた女性客のグループが帰った後、客はおれ一人となった。男はふぃーとひと息吐いたかと思うと、おれの隣のカウンター席に腰を下ろして徐ろに煙草を取り出して火を点けた。
「よく飽きもせず来るなあ、お前さんよォ? 店の味気に入ってくれんのは嬉しいけどよ、いつになったらまたあの麗しいレディ連れて来てくれんだい」
 男は、タメ口で話すようになっていた。当初の、慇懃無礼な接客態度はいつのまにか消えていた。
「あいつは来たきゃ勝手にまた来るだろ」
「なんだ、てっきりてめェの彼女なのかと」
「ただの同級生だ」
「そうかそうか! ただの同級生か、そりゃあ良かった! こんなむさ苦しい野郎の彼女だったりしたら人類の損失ってやつだった! あー神よありがとう」
「どういう言い草だ」
「でもお前、彼女のお陰でこんな素晴らしい店を見つけられたんだろうが。ちゃんと感謝しとけよ」
「……それはそうだが」
 それは本当にそうなのだ。ここを見つけられたのはナミのお陰には間違いない。けれど、そうでなくてもいつか自分はここを見つけたに違いないと確信めいたものもあった。
「ここに来るレディはみんな麗しいが、彼女はもう特別に美しいよなあ、うん、やっぱこれは運命だ! きっとまた彼女は来る、運命の女神をついに見つけたんだおれは!」
 そんな事をほざきながら、男は目をハートにしてクルクルと器用にクリオネのように回転し始めた。
 運命ってやつはこの男にとってはそんな風に楽しく甘く心踊るようなもんなのか。
「……まるで逆だな」
「ああ? 今なんて言ったてめェ?」
「別に」
「おいてめ、今度こそ彼女連れてくるかまた来てねって伝えといてくれよ、いいな?」
「知るか、そのうち気が向きゃ来るだろ」
「はー、それまで頑張るぜおれは! 世界のレディのために、とりわけ彼女のためにな!」
「……せいぜい頑張れよ」
 毎度、ここへ来る度にこの男の女への礼賛を何故おれは聞かなければならないのか、なぜそれを知っていながらまた今日も足を運んで来るのか、我ながら分からない。飯の美味い店なら他にいくらもあるのだ。
 カウンターに後ろ向きに肘をもたれかけ、天井に向けて煙を吐く男にこうも執着する自分が、分からない。
 そして来る度に苦しくなる。異物であるおれに、その女たちに傾ける情熱の一欠片でも関心を向けさせるなんてことは不可能に近いと思える。それは絶望というやつかもしれなかった。おれを苛むものの正体が、訪れる度にその片鱗を現し嘲笑い、そのうちにどこか深くて暗い所へ突き落とされる予感がする。
 店を出るために扉を開けようとした時だった。地面が濡れている。いつの間にか空は曇天に変わり、ポツポツと雨が落ちて来ていた。少しの間、おれは空を見上げて呆然としていたが、濡れて困るほどの雨ではないと扉を開けて出ようとした。その時だ。
「おい待て」
 後ろから声がかかり、男がおれにこれ、と手渡した。傘だ。
「いや、これくらい」
「いいから持ってけよ、店のやつだ」
「いいのか」
「どうせまた来るんだろ? 返すのはいつでもいいさ」
 男はそう言ってふと、笑った。

 透明のビニール傘を開くと、バラバラと不規則な雨音が降り注いだ。
 あの日の雨より、少しだけ、柔らかい。それは今だけかも知れないが。


 
 桜もすっかり散り葉桜に生まれ変わる頃。おれは半ば習慣のように、週一の休みの日には店を訪れるようになってしまっていた。明日は休みだという前日の仕事の捗りぶりときたら、上司から奇妙な顔をされるほどだ。さらに、ただ、飯を食って帰るだけだというのにその帰り道の充足感はどうだ。水溜まりを避ける足取りも軽く感じるのは気のせいじゃあない。
「チョロいな、おれも」
 ランチの時間の終わる三十分ほど前に店に着く。他の客がほぼ捌ける時間帯を狙っているつもりだった。
 しかし、今日は店の扉が閉まっていた。中を覗くと暗く静まり返って誰もいない。定休日は月曜のはずだ。軽く扉を叩いてみても応えるものはなく、足元を黒猫がチラ見しながら横切っていった。滅多な事で店を休むような男には思えなかったがやっていないものは仕方ない。引き返す足取りは自覚以上に重かった。
 帰ってからも気になって何も手に付かない。まさか急に閉店したわけでもないだろう。しかし休みの理由も何も掲示されていなかったのだ、気にならないと言うのは無理がある。
 次の休みの日まで一週間。仕事をしながらも常に店のことが頭を離れないまま細かいミスをやらかし、もう来週まで待てずに、仕事中というのに無理な回り道をして店の前を通ってみた。
 その扉は先週と変わらず閉まったまま。店はまだ再開している様子はなかった。
 もう五日ほど休業していることになる。本人に何かあったとしか思えない。怪我か、体調不良か。いやそもそも、あの男がどこに住んでいるのかも自分は知らない。つまり、あの男についておれがただ知っているのは、店をやっている間の実に生き生きとした仕事ぶり。それだけは誰よりもよく知っている自負がある。もしあの店が何かの理由でなくなることがあれば、それはあの男の生きる場所に関わる大事に違いないのだと思えた。
 少し離れた場所に車を停め、店の前へ続く道を歩いてゆくと、店の隣にレトロな煙草屋があるのが見えた。意を決してその煙草屋の暇そうに座っている老婆に店のことを尋ねてみる。
「ちょっと聞くが、あの店はなんで閉まってる」
「ん? ああ、最近よく聞かれるねえ。何だか、店主が入院したとか言ってたけどね。まだ開いてないんかね」
「入院?」
「よく知らないよ。店の前で話してる客かなんかがそう言ってただけだよ」
「そうか……どうも」
 落胆と、不安が重なって覆い被さって来る。入院するほどの体調不良なのだろうか。
 けれど今のおれにできる事など何もない。そもそも勤務中なのだった。次の休みの日にもしまだ休業なら、おれはその時どうするか我ながら想像が付かなかった。
 風が強く吹いてきた。老婆に頭を下げて来た道をまた戻ってゆくと道端の排水路から顔を出した黒猫がおれを見て首を傾げたように見えた。あの男に出会う前の世界から来た猫なのかもしれないと思った自分は、どうやら既に手遅れなほどイカれちまっているらしい。

 次の休日は薄曇りで、鈍い太陽が雲の間に見え隠れしていた。
 今日までの時間がこれほど長いと感じた事はなかった。不安な心を押し留めながら店へと早足で急ぐ。店が見えて来ると、扉の前に何やら人影が見える。一人はあの男だった。姿を認め深い安堵の息をつくが入口のところで何やら話している相手がいるらしい。会話の聞こえる距離の電柱の陰からそっと様子を伺っていると、相手は女のようだ。
「じゃあね、ここに置いとくから。鍋はもう一回あっためて食べてよ」
「ああ、ありがとう、ほんと助かるよ~」
「高く付くわよ? ランチとディナー一回ずつね」
「あはは、勿論だよ、君だけの特別メニューを用意しておくからさ」
 女は手を振って店から出て行った。すれ違いざま、慌てて顔を見せないよう俯いて通行人の振りをする。

 失態だ。
 おれは今の今まで何故思いつかなかったのだろう。あのコックに、女がいるかどうかについて。
 思えば当たり前の事だった。女の一人や二人、あの男ならいて何も不思議ではない。むしろ、今まで独り身でいることの方がおかしいだろう。独立して店を持ち、女どもにあれだけ人気のある店だ。
 つくづく馬鹿野郎だ、と己を罵った。
 今頃そんなことに気付くなんて。
 方向を変え、今来た道を引き返す。車に戻り、座席に腰を落としてしばらく身動きも出来ずにハンドルを握ったまま、道の外れで欠伸をしている黒猫を呆然と見ていた。

 あれほど長らく待ち望んでいた休みの日が、こんなにも重苦しいとは。
 けれどおれはまたあの店へ足を運んだ。自嘲もあった。自己憐憫もあった。なのに何故行くのかという疑問にはシンプルな答えがある。
 会いたいから、それだけだ。

 店は営業中の看板を掲げ、店内は普段通りの客で賑わっているようだった。
 扉の前で深呼吸をひとつ。息を吐き出してから、そっと扉を開くと、いらっしゃぁいといつもの男の声が迎えた。
「お……久しぶりい、いつものとこ、開いてるぜ」
 特に様子が変わっているようには見えない。アホ元気さは変わらずにいる事にひとまずはホッとしたが、冴えないツラを浮かべていたのを察知されたらしい。
「よう、どした? なんか辛気臭ェぞ今日」
「……入院してたって聞いた」
「お、なんで知ってんだ? ちょっとな、風邪拗らしちまって先週休業してたんだわ」
「もう治ったのか」
「おう、熱はすぐ下がったし大げさに入院させられちまったけど大したこたなかったよ。それにレディたちが世話してくれたお陰でよ、食事には全然困らなくてな、いやいや迷惑かけちまったけどお釣りが来るほど……おっと、ありがとうございましたあ」
 すかさずレジに駆けるコックの背中を目で追いながら思った。コイツは根っからの女好きではあるが、それだけじゃなく、そうやって女が世話してやろうと思ってもらえるような男である事を。
 ――結構な事じゃねェか。
 運ばれてきたランチはいつも通り美味いのだ。なのに味が舌を抜けてゆく。噛み締めているのは苦くて不毛な飲み込む事のできない感情そのものなのだった。

「ふう、今日もよく働きましたっと」
 客が出た後、またもおれ一人となった。腕捲りをしてカウンターのテーブルを拭いているコックに、あの日から聞いてみたい事があった。
「彼女、いるんだな」
「んあ?」
「この前食事持ってきた女いたろ」
「あ? お前、来てたの? 休みの日だったっけか」
「たまたま仕事で通ったら見かけただけだ」
「そうなのか? 声かけてくれりゃ良かったのに」
「んな野暮なこたしねェ」
「あの人は店の近所に住んでるお得意さんのマダムだよ。彼女じゃねェって。残念ながら人妻」
 頭を殴られたような衝撃が走った。
「あ…? 彼女じゃねェのか」
「違ェって! まあおれなんかになるとさ、店の常連マダムやレディなんかがこぞって心配してくれんの。店の休業、貼り紙だしてなかったもんでやたら心配されちまってよー、いやあおれって罪なオ・ト・コ」
 そう言ってコックはへっへっへと少年のように笑った。
 おれは次の言葉を探してしばらく無言だった。
「……確かにな」
 大罪だ、と言いたかった。が、それは耐えた。とにかくあの女は奴の彼女ではなかった事に正直なところ安堵している自分が悔しい。けれど覗いた不毛が消え失せるはずもない。今居なくとも、それはいつだって時間の問題なことに変わりないのだから。
 そしておれはあくまでも『異物』。
 この男の生きる世界に請われる存在ではないのだと、改めて思い知らされる。
「やっぱりレディはいいよなあ! とびきり優しくて美しくて、目にも心にも保養だあ〜、それだけでおれァこの世に生まれてきた甲斐がある!」
「男についてはどうだ」
「は?」
「眼中に無さそうだな」
「男の存在価値はレディ達を守る事、愛でる事! それ以外には無ェ! 以上だ」
 芯の通った男の宣言に、織り込み済みの苦笑いが出る。全くブレない男だ、それがコイツなのだから。
「……帰る」
「お? 何だ、急ぐ用事でもあんの」
「……別にねェが」
「新しい紅茶仕入れたんでよ、ちょっくら試しに飲んでみねェ? もちろんサービスだぜ」
 こういう所だ。奈落に突き落とした後にこういう事をする男だ。
「……なら貰うが、酒ならなお良かった」
「酒ェ? んじゃ晩に来いよ、と言っても晩はカップル多いからキツいか? あ、けどてめェがレディと来るのは厳禁な」
「なんだそれ。来るわけねェだろ」
「んじゃ今は紅茶で我慢しとけ。車で来ねェ時に今度いい酒仕込んどいてやるからよ」
 そう言って楽しげにコックは立ち上がり、カウンターへ消えた。
 酷い野郎だ。そう思う。
 それでもなお、突き落とされた奈落に垂らされる糸を死に物狂いで掴まずにはいられないのだ。何度でも切れてしまう細い糸だとわかってはいても。

 ひと雨ごとに夏が近づいてくる。

 湿った空気が次第に重くなり始めた水無月の頃。
 外はとっぷりと夜の帳が降り、店は晩飯の時間を終えて『準備中』の看板が扉にかけられている。店内の灯りはまだ煌々と灯っていた。
 扉に手をかけてゆっくりと押すと扉は開いた。カラカラと聞き慣れた音が鳴る。
 「すんませんが、もう今日は閉店……」
 そう言って途中で沈黙した男が、目を見開いてこちらを見た。構わずおれは、そのまま店に足を踏み入れる。
「ど……どうした? こんな時間にお前、ッておい、しかもびしょ濡れじゃねェか」
 外では雨樋を伝った雨が激しく滝のように地面を打ちつけている。
 無言で立っているおれに驚いてか、男はしばらく固まっていたが、ハッと我に返り、タオルを手にするとおれに投げて寄越した。
「とにかく、早く拭け! 風邪引くだろバカ野郎」
「……」
「ったく……食いっぱぐれたのか? とにかく座れ。腹減ってんなら今から作ってやるから」
「そうじゃねェ」
「ああ?」
「大事な事を言いに来た」
「あ? 何だ」
「おれは諦めが悪い。だからてめェがお呼びじゃなかろうがこれからも通う」
「…………え?」
「そんだけだ」
 ひと息に吐き出し、吹き出す汗と荒い呼吸を無理やりに抑え付けておれは踵を返して扉を開けた。店を出て土砂降りの夜の道へ飛び出して走った。容赦なく顔に打ち付ける雫で前が見えない。時折、車のライトが眩しく通り過ぎてゆく。人通りの少ない歩道が続くのを幸いに、目にも口にも雨が激しく打ち付けるが構わずひたすらに走った。
 赤いライトが信号であることにギリギリに気付いて、交差点でやっとの事で立ち止まった。息が上がり、全身が発火するほど暑いが、脳内の奥深いところは深々と冷えているのだった。痺れるほど冷たい泉の底のようだ。
 びっしょりと濡れた、すでに用を成していないタオルを強く握り締めた。あんな事を宣言したからと言って何も変わりはしない、これからも。それでもおれは覚悟ができた。どんなにびしょ濡れでもいい。
 想い抜く。

 その時。後ろから近付いてくる足音があった。その足音は、おれのすぐ後ろで止まった。
「待てよ」
 声の主は、振り向くまでもなかった。
 男は、おれのスピードに付いてきたのだろう、少し上がった息のまま言った。
「てめェには謝らねェぜ」
「わかってる」
「それでも、また来るのか」
「…………そうだな」
「大した野郎だ」
 男はそう言ってしばらく黙った後、再び口を開いた。
「おれァ、レディのために生きてきたが……てめェみてェな奴は初めてだ」
「…………」
「強ェんだな」
「強い……?」
「ああ。もしおれだったら、耐えきれねェ」
「……は」
「謝らねェが、悪いとは思う」
「…………」
「けど、来てくれんのは悪い気がしねェ、おれは歓迎する。お前がそれでもいいなら、な」
 おれのことを強いと言った男は、どこまでも深い低音でそう応えた。
 眉間の辺りが重くなり、ツンと鼻腔に刺激が走ったが辛うじて耐えた。
「……礼を言う」

 信号が青に変わった。
 交差点へ足を踏み入れる。渡り始めたおれの後ろに足音は、ない。
 蕭々と雨は降り続ける。打ち付ける雨はすべてを押し流すほど激しく白く、おれにとってその事だけが今、ひとつの希望だった。

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