ある海賊の告白

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傷に強い男だと思っている。

 誰が見てもわかる派手な傷ばかり持つ野郎だ。大きく裂けた胸の傷跡、縦に蓋をされた左の眼、雑な縫い跡が残る足首。そしてもっと近づいてみれば、腕や肩にも無数に細かい刀傷がある。
 おそらく自身の誇りであろう大きな剣士の背中だけには、そこだけは、美しく保たれた筋肉が滑らかに広がっているのだ。
 そんな男に、どれだけ傷をつけようとも、望むダメージを与えることなんて不可能じゃないか。三本の刀に認められ、頂上を目指す強い意志に支えられた男を一体誰が俯かせられるというのか。
 呻くほど苦しめて、二度と立ち上がれないような傷なんて——

 そんな夢を見る夜は決まって、眠りが浅く目が覚める。

 暗闇の中ボンクをそっと抜け出して、足音を殺しながら静かに階段を上りキッチンのドアを開ける。空のヤカンを火にかけて沸騰するのを待つ間に、今夜のなけなしの一本を取り出して、赤い火の点いたタバコの先が燃えてゆくのを見つめながら思う。おれは一体何を考えてんだ。
 砂利を噛むような味の煙を吐き出して、何を禊ごうってんだおれは。

 沸騰を知らせる湯気がシュンシュンと子犬のような細い鳴き声を上げ始めたころ、ふいにドアが開いた。

「……なんだてめェ、起きてんのか」

 一瞬、ヒュン、と竹串をさしこまれたように心臓がすくんだ。どうしてこいつはいつもいつも、最悪のタイミングでおれの前に現れる?
「な、なんだ、てめェこそ何の用だ」
「おれァ水を飲みに来ただけだ。寝つけねェんでな」
 灰皿に落ち損ねた灰がつま先にポトリと落ちる。
「……へぇ、てめェが寝付けねェたァ、珍しいこともあるもんだ。明日は赤い雨でも降る覚悟しといた方がいいな」
「ふん」
 忌々し気にこちらを一瞥したゾロは、おれの目の前を大股歩きで通り過ぎて冷蔵庫の扉を開けた。
 こんな風にふいに二人きりになるときは、どうしてかうまく言葉が出てこない。いつもそうだ。がっちりと喉笛を誰かに掴まれたみたいに、腹の中の声が握りつぶされる。投げつけあうのは結果いつも険悪な売り言葉、買い言葉ばかり。
 ドカリと音をたててベンチに腰を下ろし、ゾロはグラスの水を一気に飲み干して口元をグイと拭った。しばらくの沈黙のあと、蓋をされていない右目が強い視線でおれを捉えたのに気付いて、あわてて目を反らす。
「おい」
「ッ、なんだ」
「言いたいことがあんなら、とっとと言え」
「あ?」
「目ざわりなんだよ、こういう時ァいつもてめェ、腹に石飲み込んだような顔しやがって」
 やかんの蓋が激しく揺れ、噴き出し続ける湯気の音がグラグラとキッチンに響いて煩い。
「な、おれは別に」
「何もねェならそんなツラすんな」
 どんな面に見えたのかと自らの頬をピシャンと叩いて撫でてみる。するとあきれたようにゾロはため息をついた。
 コイツは存外、何かを見透かすのが得意なのかもしれない。それにしても『こういう時はいつも』と言ったか? 二人きりになっちまった時に、コイツも毎度おれを観察してたって事になるが。いやまさかな。そりゃ気にしすぎだろう。コイツにとっておれは目の上のたんこぶみてェなもんだろうし、顔を見ずに済めばそれに越した事はない訳で。
「早く寝ろ」
 そう言い残してゾロがキッチンを出て行こうとした時、反射的におれは口走ってしまったのだ。
「おい待てよマリモ」
 ゾロはその言葉に素直に振り返った。
「なんだ」
「ま、あのよ、折角の静かな夜更けにカチ合ったのも縁ってこったろ。ちょっとだけならいいぜ、飲んでも」
「……ああ?」
「酒」
 そう言ってやると、一旦目を見開いたゾロは、突然なぞなぞを吹っ掛けられたような顔をしていたが次の瞬間に頬を緩めてニッと笑んだ。その顔と言ったらまあ、おれに向かって挑発する時の不遜な野郎とは全然違って……
 なんというか、とても子供っぽかったのだ。
 不覚にもおれはその表情に引き込まれ、危うく笑顔を返しそうになって慌てて食品庫の扉に向かった。おれにもそんな顔が出来るんなら、なんでもっと早く素直に誘わなかったんだおれァ? と、あまつさえ後悔の念まで浮かぶ始末。
 飲むはずだったのはコーヒーなのだが、そうと決まれば。沸騰し切っていたやかんの火を止め、グラスを二つ取り出してテーブルに置く。

「おらよ、残してあったとっておきのうちの一本だ」
「へえ……? 急にどんな風の吹き回しだ? まあ、貰える酒は遠慮なく貰う」
 そう言いながらゾロは、それぞれのグラスに液体を注ぐと、ん、と顎でこちらに勧めてきた。
「あのな、出してやったのはおれなの」
「んなこた、わかってる」
 相変わらず偉そうな野郎だ。とはいえ不思議なことに今は悪い気がしない。グラスを手に取り、つぅ、と喉に液体を通す。見るとゾロはとっくにグラスを空にして口元を拭っていた。

「……で、何が気にいらねェんだ」
 見透かすような右眼がこちらをまっすぐに刺してくる。こうやって刺してくるのはいつもお前で、それをおれは長い間ずっと――
 喉に溜まった液体を埋めるように飲み込んで、おれは言った。
「てめェの気に入らねェことなんてのは、枚挙にいとまがねェ。今さらいちいち言っても始まらねェだろうが」
「ああ? んじゃなんだ、言いてェことあんだろが」
 怪訝な色をして見つめる隻眼を、精一杯の冷静さを装って受け止める。言葉にするのはいささか躊躇われるが、長らく溜め込んできたこの始末の悪い好奇心にはもはや勝てなかった。
「てめェはよ……身体こそ刀傷だらけだが、その、中身の傷はどうなんだ? おれには理解不能なくれェ、頑丈にしか見えねェんだよ」
「中身? 傷? どういうこった」
 眉間に皺を寄せて尋ねてくる男に、なんとか上手く説明する手立てを見つけようと頭を巡らせる。
「中身だよ。てめェの、コン中の」
 そう言いながら握った拳で自分の胸の真ん中をトントン、とやってやる。するとゾロはおれの拳をしばらくの間見つめた後、予想外の答えを寄越した。

「――傷なんてのは、もう忘れた」

 聞いたからには、心の準備をしておくべきだったのだと後悔した。
 そんなモンあるわけねェ、などと一蹴される事をどこかでおれは願っていたのだ。何処までも大剣豪という高みに向かって突き進む愚直なほど真っ直ぐな男の魂に、傷などあろうはずがないと、今の今までそう思いたくて。
 けれど考えりゃ当たり前の事じゃねェか、おれは、あの時血飛沫を上げて斬られたコイツを目の前で見たんだ。あれがなぜ「中身までは斬られなかった」などと思ったか?
「そう……か、てめェと言えどもあんな風に斬られりゃあな」
 うっかり馬鹿なことを口走らないように、慎重に言葉を吐いたつもりだった。あの大剣豪から受けた傷がくっきりとコイツの中身にも跡を残した、その事を思うとおれはまた、泥のように懺悔の沼に入り込んでしまう。
 するとゾロは言ったのだ。
「ミホークの野郎に斬られたのはただの通過点だ、勘違いすんなアホコック」
「んあ?」
「もっと前だ、おれはまだガキ過ぎて、傷だったかどうかも分からねェうちに消えた」
「ガキ……? てめェが、ガキん時?」
「ああ」
 もしやこれはおれが初めて聞くゾロの過去の話なのだと気づくのにしばらくかかった。ゾロのガキの頃の、おれの預かり知らぬ『傷』もどき。
 それがどんなカタチをした傷なのか。
 知りたいと思った。
 でも同時に知るべきじゃないとも思う。
 おれも、そしておそらく一味の誰も、知らなくていい事だろう。コイツが話さない事はコイツだけのものであって、不躾に共有しちゃいけない。
 そうだ。そんなものはおれにだってある――
「……そうか、ま、詳しくは聞かねェ。悪ィな」
 ゾロは黙っていた。
 瓶に残っていた酒をそれぞれのグラスに注ぎ、一口、喉に流し込む。ゾロはグラスに手をつけず、暫く微動だにしなかったが、ふいに口を開いた。
「ガキん時、強かった幼馴染みが死んだ」

 唐突に告げられた過去に、心臓を殴られた。
「え?」
「突然、死んじまったんだ。階段から落ちてな。……おれァ、一度もアイツに勝てなかった。アイツに勝っておれはいつか大剣豪になってやると決めてたのに、越えるべき奴が目の前から消えたんだ」

 言葉が出て来なかった。

 コイツが何故そんな話をいまおれにし始めたのか、それも分からない。分からないまま、ただおれは話の成り行きを聞くばかりだった。
「アイツが消えて、目標だけが残った。おれはアイツの刀を受け取って誓ったんだ。必ずテッペン取って、天まで名前を轟かせてやる、ってな」
 ゾロはそう言って、どこか遠くを見つめていた。
 おれは、自分でも思いがけず衝撃を受けていたらしい。一体何に? 胸が焼けつく。おれの知らない過去のゾロに、どうしたって横入りなんて出来やしないというのに。
「……へえ……そんなに強ェ野郎が居たんだな、てめェより」
「そうだ。野郎じゃねェがな」
「え?」
「アイツは女だ。けど滅法強かった」
「おん、な……?」
「ああ」

 おれは暫くの間、大きな袈裟掛けの傷が見えるゾロの胸を見ていた。
 女。コイツの口から、最も出て来るのが遠いであろう単語だ。突然畳み掛けられた言葉たちを飲み込むのには時間がかかった。
 コイツの中の傷に住む、レディ。キミは一体、どれだけの力を持ってるんだい? コイツをテッペンに導く程の? そう聞いてみたくて堪らなかった。
「……なんでおれに話す?」
「さあな」
「皆知ってんのか? ルフィにも」
「いや、他のやつには話したこたねェな」
 そう言ってようやくゾロはグラスを手に取り口元に傾けた。ゾロの体内に流れ込んでゆく液体をおれは茫然と見つめた。
「気にくわねェ野郎にあえて聞かせる話でもねェだろうよ?」
「気にくわねェってのはてめェがだろうが。おれは別に言ってねェぞ」
 ゾロはそう言った。
 おれの勘違いか聞き間違いか。
「……へ?」
「……」
 己の発した言葉に気づいたのか、ゾロは急に口を継ぐんだ。気のせいかほんのりと頬が上気しているようにも見える。
「気にくわねェんじゃねェの? おれのこと」
「……ああ、気に食わねェな」
「なんだよ、やっぱ」
「そうやって思い込んでやがるのが、気に食わねェって言ってんだ」
 コイツは何か血迷っちまったか、はたまた酒が回り過ぎたのか。いやいや、グラスの酒なんてコイツにとっては一口だ、この程度で酔うはずもない。
「それって……どういう意味」
「どうもこうもねェ、勝手に決めつけんなって言いてェだけだ!」
 何故かますます気色ばんでくるゾロを見ていると、おれはもしや、ここで言っちまってもいいんじゃないかと謎に腹が据わってきた。
 ひと思いに、今ここで。
 緩んでいたネクタイを締め直し、腕捲りをしてあったシャツの袖を戻してボタンを留める。
「あー、そういやァてめェに言っときてェ事があった」
「おう、言ってみろ」
「あらかじめ言っとくが、返事は要らねェ。てめェがどう受け取ろうが勝手だ。いいか」
「あァ?」
 一つ深呼吸を。軽く吸って、大きく吐いて。
「てめェん中のレディには敵わねェかもしれねェが、おれァ、」
 言え。ひと思いに。

「ロロノア・ゾロ。お前の傷におれはなりてェ」

 ゾロは、黙っていた。返事は要らねェと言ったのだからそれでいい。
 波の音、船のエンジンの音。それ以外なにも聞こえない時間がしんしんと過ぎた。そのうちに、黙っていたゾロが遠く小さく見えてきたような気がして、思わず
「ゾ、」
と、声を出そうとした時だ。
 深い眉間の皺とともに、こちらを射るように構えていた瞳に電灯が反射して光った。そして瞳は、少し潤んだように揺れた。瞬きの間かもしれなかった。
 
 忘れもしない。その時のゾロの顔を。致命傷を受けたような、初めて見る顔を。
 おれはずっと。
 ただ一人、ゾロを傷つけられる人間になりたいと、いつからか希んで来たのかもしれなかった。
 希みは叶ったのかもしれなかった。

「そんなら、てめェとは海賊仲間なんてのァ、もうやめだ」

 ゾロは押し出すように言った。

 仲間じゃねェならなんて言うんだい、と問うと、知るか、と答える。わからねェよな、とおれも答える。わかるのは、ただ、コイツの傷の深さの分だけ、おれは長く生かされるだろうということだった。

 責任持ってトドメを刺せよ。そう言ってゾロはおれのネクタイを強く引いた。

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