確かに見覚えのある界隈だ。
人通りはすっかり途絶えていた。この辺りは地元の飲み屋が数軒、ひっそりと営業しているだけの、錆びた時代の忘れ物のような通りだ。シャッターを下ろした店が狭苦しく並ぶ寂れた横丁を抜け、歪んだトタンのゴミ箱の蓋の上に鷹揚に腰を下ろした、眼ばかりが目立つ黒猫の視線を一心に浴びる。時折、数匹の黒いものが目の前をはたはたと横切ってゆく。蛾か、いやあれはコウモリだろう。
妙に手入れの行き届いた鉢植えの並ぶ路地を曲がり、少し進むと、目指す店の軒先が見えた。店の名を描いた大きい提灯が無言でぶら下がっているが、灯りはない。人の声も何もしない。案の定か、という予感はあるものの、とりあえず辿り着いたのだ。引き返すのは店の中を覗いて見てからでもいいだろうと思い、ゾロは店の暖簾をめくった。
暖簾の奥はたたきになっていて、その奥に木枠の古びた引き戸がある。そっと引いて店の中を覗くと、何ひとつ明かりのない真っ暗な空間が広がっていた。
やはり誰もいねェか。
それはそうだろう。店の営業時間はとっくに終わっている。それどころか、刻は丑三つ時も近い。飲み会はお開きになって数時間は経つだろう。誰もいないのは当たり前なのだ。
分かりきっていた事というのに、ゾロはしばらく目の前の闇をじっと見つめていた。
誘われた飲み会は、昔の腐れ縁の同級生達の集まりだった。卒業してから、個別に会った野郎はいたものの、あの頃つるんでいた奴らが全員来るからと、半ば無理やり場所を教えられ、皆でよく集まったあの店だからな、絶対来いよと、あの鼻に念を押されていた。断る気はなかった。が、引っかかっていたのは「全員」という言葉にだ。全員。その中に含まれる一人の野郎がずっと頭を占めていた。奴が来る。その事実が足を鈍らせたのか、ただ集中力を欠いていただけか、ミスを連発した後始末に時間を取られ、職場を出てからひたすらに歩いても歩いても、店ははるか遠く、気づけばこんな真夜中になっていた。
真っ暗な空間から、突然、ぬっとマスクをしたオヤジが顔を出したので、不覚にもゾロは息を呑んだ。店主は、ただ無言でじっとゾロを見つめて、それから少し肩をすくめ、静かに踵を返して店の奥に消えた。再び訪れた静寂のなか、ゾロは静かに引き戸を閉めた。もう終わってしまった宴のことを思っても仕方がない。誰もいないのは事実だ。また別の機会にいくらでも顔を合わせる時があるだろう。そう自分に言い聞かせようとしたが、店の闇に溶けていったここにいたはずの男が脳裏に浮かんで仕方がない。金色の髪を気障ったらしく揺らし、煙草を口端に携えてヘラヘラと笑う、眉毛の渦巻いた男。ここで、この店で、ついさっきまで酒を飲み、大笑いしていたはずの男のことを。
卒業以来、会うことを故意に避けていたあの男の不在が、闇を濃く際立たせているのだった。
しんとした闇と静寂を後ろに、ゾロは再び通りへ戻った。振り返ると、店主はもう寝ていたのだろう。起こして悪かったと省みつつ、ふと路地沿いに店の裏手に回ろうとゾロは思った。
店の建て付けは相当古い。木造の平屋で、店舗と住居が一体になっている。老朽化して時折り剥がれかけた塀に沿って歩くと、鍵もない開けっぱなしの小さな勝手口の扉がある。昔、ヤンチャ盛りの高校生の頃に、連中とつるんでは人のいい店主につけ込んで奥の中庭まで入り込んで騒いでいたものだった。なので家の中の構造はすっかり頭に入っている。
扉から中庭を抜けると、向かいに縁側に面した廊下がある。その突き当たりの角は便所なのをゾロは知っていた。その傍らには水のない枯れ井戸が雑草にすっかり埋もれていた。店主はもう歳だからか、かつてより庭の手入れに気をやれていないらしい。しかも鍵もかかっていない勝手口からは誰でも中庭に入り込める。物騒なもんだ、とゾロは自分のことを棚に上げ中庭を突っ切っていった。その時だ。ガサリ、と背後で人の気配がしてゾロは振り返った。店のおやじはとうに家の中に入ったはずだが。
「よぉ」
脳内を占めていた男が、突如目の前に姿を現したのだ。
金色の髪、渦巻く眉毛。薄く開いた唇の端には、火のついていない煙草が咥えられている。
「…………」
「久しぶり」
「…………」
「……えらく遅い登場だな? マリモくんよ」
暗闇に溶けたはずの男が、人のかたちをして話をしている。
ゾロは、言葉を招くことすら出来ずにただ目の前の男を凝視するしか、なかった。
「なんか言えよ」
「……なんで……ここにいんだ」
「んん? 今日はこの懐かしの店で宴だって言ってたろ?」
「そんなもん、とっくに終わったんじゃ、ねえのか」
「終わっちまったけどなァ、一人、迷子の野郎がまだ到着しねェんで、ここで待たせて頂きました」
「……は?」
「てめェの迷子のスケールなんて骨の髄まで知ってんだよ。一時間や二時間なんて遅れに入らねェだろうが」
そう言ってヘラりと笑んだ男は、徐ろにポケットを弄って、薄い緑色をした安物のライターを取り出し、摘んだ煙草に火を付けた。
「なんで、待ってた」
思わずそう聞いた。すると、男は煙を深く吸いこみ、殊更ゆっくりと、空に向かって煙を吐き出してから言った。
「会いたかったからよ」
「あ?」
「どうしてもな、会いたかった」
静かに、語りかけるように男は言った。
闇に慣れてきた目に映るのは、忘れもしない海のいろを湛えた瞳がひとつ。そこには容赦ない時の流れに追い立てられて無理やりに置いてきた、あのかつての青い日々がぎゅうぎゅうに詰まっていた。溢れそうで、こぼすまいと必死に駆けて来たあの日。じゃあな、と、笑っているのに泣きそうな目をして校門で手を上げたコイツの姿が、おれを掻きむしって掻きむしって止まらない、今も。
たかが再会しただけで。
まさかこれほどとは。
会いたかったなんぞ、誰にでも言うコイツの軽口と同じ言葉は零すまいと、奥歯を強く噛み締める。零すまい、ひと言足りとも。
真夜中に現れた男は、けれど息つく間もなく暴くだろう。
おれをこんなにも愚かしく舞い上がらせる人間は、目の前に居るただひとり。絶望的なその事実を。
真夜中のガスパール
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