夢なら解いて

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【R18】海賊世界軸。同じ夢を見た二人。
拙本の再録集に書き下ろしとして収録していたものです


 明け方に見る夢は、たいていが救いのない顛末だ。
ある時は、崖から足を踏み外したところで目が覚める。またある時は船を乗り過ごしたところ、そしてこの前は、大きな鎌が自分めがけて振り下ろされようとしたところだった。
 で、今朝はというと。

 自分の声で目が覚めた。
 何かを絶叫して口が『あ』の形にポッカリ開いたまま、右手を宙に伸ばして、じっとりと汗までかいていた。心臓もバクバクと速い。うすぼんやりとした朝の光が天井を照らすのを目を見開いてしばらく見つめていた。

「……ふぅ……何だってんだ、あの夢は……」

 天井に目が慣れて来た頃、ついさっき体験したかのように見た夢の出来事を反芻してみる。時間の流れに洗われて詳細はボヤけて来ているのだが、寝起きの頭にこびり付いているのは様々な感触、手を伸ばした先の誰かの後ろ姿。そして、あるはっきりとした感情だった。それも強烈な。
 重苦しさを拭おうと急いで起き上がり、便所のあと洗面所へ。冷たい水を顔に叩きつけ、額から頭ごと水を掻き上げてバスタオルでガシガシと擦ると、やっと少しひと心地がついた。目の前の鏡を睨んでみれば、ほんの少し伸びた顎ひげが気になって親指と人差し指の側面でそっとさすって手触りを確かめる。確かめながら、想像が生まれる。
 ——あの男はきっと毎朝、こうやって自分の顎を眺めては念入りに髭の形を整えているに違いない。時々、悦に入りながら。
 そんな事を思った途端、身体が急にカッと熱くなった。これは良くない。夢の名残りがまだおれを支配している、こんな状態であの男に出くわせばさらにまずい事になる。そんな予感が膨らむので再び冷たい水にタオルを浸し、顔から首、上半身全体をやみくもに拭き擦った。

 海風でも浴びてさらに体を冷やそうと船尾へ続く通路へ出た時だ。
 ふいにキッチンへの扉が開いた。
 会いたくはなかった奴に限って、真っ先に目の前に現れる。この船のコック、つまり先程の夢の登場人物だ。
「……なんだ、テメェか」
 スルーして通り過ぎればいいものを、つい立ち止まってしまう。
 同じクルーとして船に乗り込んできた当初から、こいつとは反りが合わない。見た目の軽薄さは言うに及ばず、何かにつけいちいち突っ掛かってくる挑戦的な態度には毎度ムカつくし、偉そうに指図ばかりしてくるくせに、女とみれば甘ったるい言葉と奇天烈な動きで気色の悪いアピールを繰り返す。女ファーストを徹底するのは勝手だが、野郎への当たりの差がありすぎるのはムカつくのを通り越してあきれ果てる。そんな奴とまさか仲良くなろうはずもない。毎日、なにかしらのいがみ合いばかりの男にいざ出くわして、何を言えばいいのか皆目わからない。しかもそういう時に限って、だ。

 よりによってあんな夢を見た直後だなんて災難以外の何ものでもない。

 ほとぼりが冷めるまでは当分、こいつには関わらないに限る。そう強く念じて横を通り過ぎようとしたところに、コックが声をかけてきた。
「おい」
「……あ?」
 仕方なく返事を返す。声色が妙に静かだと違和感をわずかに感じながら。
「マリモのくせに今朝はえらく早起きじゃねェか」
「あぁ? 別にいいだろ、便所に起きただけだ」
「クソ奇遇だな、おれもだ」
 コックであるこの男は毎朝、他の誰よりも早く起きだして朝食の仕込みをしていることくらいは知っている。態度にはイラつくものの、こいつの職務への忠心度合いはまあたいしたものだとは思っていた。けれど今は、どうもそういう様子ではない。
「……あー、あのよ…………」
「なんだ」
 なぜか妙に絡んでくるのが不思議だ。あまり言葉を交わしたくはなかったが、この場にふたりしかいないのにガン無視を決めるのはどうもガキ臭い。
「………………や、なんでもねェ」
「あ?」
 つい険のある声を上げてしまう。
「なんでもねェって。……なんか、暑ィな今朝は。夏季の海域にでも入ったかな」
 何やらブツブツいいながらコックは立ち去っていった。一体なんだったのかわからないまま、しかしたいして顔も見ずに済んだことにホッと安堵しつつ、通路をゆっくりと船尾のほうへ歩いた。

「サンジィー! おかわり!」
「おれもおれも!」
「おれもたのむー!」
「同時に言うな、順番だ順番!」
 いつもの騒がしい朝食の光景が繰り広げられている食堂で、コックは、次々にオーダーされるおかわりをこなすのに忙し気にキッチンとテーブルを往復している。普段なら、空になった皿を無言で差し出せば自分にも同じようにそれを受け取り、また盛り付けられた皿が運ばれてくる。が、今朝は何となく躊躇われ、空の皿をそのままにしているとコックは無言でそれを取り上げ、おかわりが載せられた皿をまた無言でそっと目の前に置いていった。
 にぎやかな食卓の会話を縫って、考古学者が口を開いた。
「そういえば、今朝は素敵な夢を見たんだけど、みんなは何か見たかしら」
 突然の夢、という単語に思わず箸が止まった。
「夢? あたしは何も覚えてないわー、ロビン、何を見たの?」
「ふふ、それは秘密。ただ、昨日、文献を読んでいて面白いことを知ったのよ。今ここの海域について」
「海域?」
「そう。ある海域で起こる不思議な現象のことよ。その海域では一度だけ、正夢を見られるの。おとぎ話かと思っていたけれど、どうやら本当みたい。興味があって調べてみたらちょうど今、この海域の位置だそうよ。つまり今朝見た夢は、リアルに将来起こること、ってことね」

 正、夢?

「ええ、そうなの? やだー、どうして金塊の山に登る夢見なかったのかしら私!」
「へえー?  なんだそれ? 見た夢がほんとになるのか? おもしれーな! おれはでっかい肉の山に登ってる夢だったぞ! 全部食っちまった! それほんとになんのかー、ししししし!」
「まじかよルフィー! おれは今朝の夢覚えてねえよぉー、なあ、明日じゃダメなのかロビン?」
「間違いないわ、今朝の夢よ」

 何も頭に入ってこない。
 正夢、だと?
 『リアルに将来起こること』確かにロビンはそう言った。まさか。

 楽し気に騒ぐクルーたちの光景が、時が止まったかのように静止して見える。
 しばらくおれは固まっていたらしい。
 そしてふと気が付いてしまった。おれと同じようにもう一人、給仕する体勢のまま固まっているクルーがいた。

 渦巻いた眉毛の下で、まんまるく目を見開いた男と目が合った。

 まさか、とは思う。
 しかし、奴の態度が余りにも自分と似通っているように見えて仕方ない。
 いやいや、やはりあり得ない、何か『別の』まずい夢でも見て動揺しているだけだろう。考えられる事はいくらでもある。何しろ日頃から気色の悪い妄想で勝手に鼻血を出したりするような、筋金入りの女好きの男だ。大方、そんな女絡みに違いない。
 
 固まっていた男がクルーの再びのおかわりオーダーに我に帰った隙に、おれは立ち上がりキッチンを後にした。情け無くもほうほうの体で。

 晴天の続く穏やかな航行日和だったので、前々からの予定通り今日はクルー全員での洗濯デーとなった。
 柱と柱の間にロープを張り、各々自分の服を洗い終わったものから順に干していく。
「おーいルフィ!ど真ん中に陣取って干すな、端に寄せとけ!」
 早々に自分の服をロープに引っ掛け、飽きたとばかりに甲板に飛び出していくルフィを怒鳴りつけながら、カツカツと足音が近づいて来た。
「ったく、どうせまともに洗ってやしねェ……うぉっ?」
 突然、背中に衝撃と重力が襲いかかって来た。置いてあるタライに蹴つまずいたコックがおれにのしかかってきたのだ。
「グワっ! 何だ!」
「ってェ……誰だ、んなとこにタライ置きっぱなしの奴ァ……!」
 背中からぼやく男の体温が、ねっとりと体の裏全体を覆い尽くす。じわり。じわり。不思議なことに、触れている背中ではなく胸のあたりが急に跳ねるように暴れ始めた。
「……ッ、重ェ、どけ、クソコック」
「言われなくてもわァってら! って、クソ、なんだこれ? 誰のタオルだ!」
 どうやら足に何か引っかかったらしいコックは、おれの背中を支柱にしたままひざから下をぶん回してそれを外そうとした。
「早く、どけ!」
「うるっせぇな! これ取れねェんだよ、ちょっと支えろ」
 コックの出す声が張りついた背中から直接、内臓を伝って響いてくるのに一瞬、怯んだ。昨夜の夢の断片が発火したのだ。
「どけ!」
 思わず立ち上がり、背中の男を力づくでどかせた。そうでもしないと何か、やばいものが湧いてくるような気がしてならない。重みを伴った熱の塊がまだ全身をかけめぐっている。まずい。
「いってェな! 急に立ち上がんなこの阿保!」
 どこかないか。コイツが近くに来ねェところは?
 取り合えず思いついた場所へおれは急いで逃げ進んだ。

「ゾロぉ、晩飯だってよー」
 船医がはしごからぴょこりと頭を突き出して言った。
「おお……」
「早く来ねェと飯抜きにするぞって、サンジが怒ってるぞ! おれはちゃんと言ったからな?」
「ああ、わかったチョッパー。今行く」
 先にはしごを降りて行ったチョッパーの後を、渋々と降りて食堂へ向かう。
 展望台なら、と謎の安心感のある場所に今日は一日中籠っていたが、飯だけはどうしても食わなきゃならない。まさかここへ運べなどと頼んだら、理由を問い詰められてはかなわない。仕方がない。

 食堂へ入ると、ほかの面子はもうひとしきり食い終わったあとらしく、空の皿が方々にちらばっている。腹を風船みたいにふくらませたルフィやウソップがギャアギャアと騒ぎながらドアに突進してきたのにぶつかりかけた。
「ゾロ、おっせ~! 早く食わねェと飯抜きになんぞ~!」
 そう言いながら弾丸のごとく外へ走り出したルフィたちを尻目に、いつもの席にようやく腰をおろす。
 コックは、キッチンにむかって鍋をかき混ぜていたが、おれの着席に気づいてちらりとこちらを見やった。
「ギリだぞてめェ。これ以上遅れたら飯は明日の朝飯に回すところだ」
 言い草こそ凶悪なコックが、湯気の立ったスープがたっぷり入った碗をおれの目の前にそっと差し出してくる。そうだ。コイツはクルーの飯をないがしろにしたためしは一度だってない。それはおれですらも例外じゃない。
 次々と運ばれてくる皿には十分な量の今日のおかずが綺麗に盛り付けてある。デザートの果物までも。
「ねえゾロ、今朝の話。あんたは夢見たんだっけ? 聞いてなかったけど」
 突然そう話しかけてきた航海士の女の言葉に、ぐ、と喉を詰まらせかけた。
「あ、あァ? 夢?」
「そうよ! ロビンが言ってたじゃない。今朝の夢は正夢になるって。ほんと残念だわ~、私も何も覚えてないのよねえ。あんたも?」
「な、ナミすわん! コーヒー、おかわりどう!?」
 急に素っ頓狂な声でコックが割り込んできた。
「え? そうねえ、もうたくさん飲んじゃったからいいわ。お腹いっぱい」
「そ、そう。ロビンちゅわんは?」
「あたしももう十分よ。ご馳走様」
 そうだロビン、次の島に着いたら買いたい服のリスト見てほしいの。行きましょ! と言いながら、女クルーの二人は揃って食堂の扉を開けて出て行った。
 つまり、またもや、一日避けてきたというコックと二人きりの時間だ。まずい。なんとしても避けなければ。
「あー……、クソマリモ、てめェもなんか飲むか?」
「いやいらねェ。おれァ今から風呂に入る」
 コックは目を丸くした。そんなにおれが風呂に入るのが驚くことか。とにかく、どこでもいい、コックのいるここじゃないどこかへ行かねえと。食後の酒を頼むのを諦めてすぐに立ち上がった。

 ガチャリ、と戸の開く音のした方に目を向けると、湯気の中に黄色の頭をした男が浮かんでいた。
 一瞬足を止めるも、そのままゆっくりと風呂場に入ってくる男にしまった、と己の行動を悔やむ。まさかコックがすぐここに来るとは思わなかったのだ。
 無言で隣に立てかけてある洗面器を手に取り、湯を数回体にひっかけてコックは湯舟に近づき、ゆっくりと足を差し入れて身を沈めた。なんとか言え、という念も届いていないのか、無言は続く。体中の石鹼を流した後にもう一度湯舟につかるつもりだったので、やむを得ず無言のままできるだけ距離をとりながら、そろりと足先を湯舟に浸す。両足を浸けてから一気に湯の中に腰を下ろし、浴槽の縁に両肩を預ける。
 しばらくの間、おれとコックの間には湯気だけがのんきに揺れていた。
 無言が続く理由はさすがにわかっていた。もちろん奴もそうだろうと思う。おそらく、同じ理由で。
しかし痺れを切らしたのはコックの方だった。
「マリモが風呂入ってんの、珍しいなァ?」
「……うっせ」
「そんな離れなくてもいいんじゃねェの」
「別に離れてねェ」
 しばらく、また無言が続いた。
 そのうち、ふぅとため息とともに、意を決したかのようにコックが言った。
「なあ、思い違いならありがてェが……今朝のロビンちゃんの話、聞いてたか」
 ギクリと心臓が跳ねる。
「おれァ見たんだよなァ。あの正夢、ってやつ? 今朝の夢はやたらはっきりしてやがってよ」
「……へぇ?」
「てめェも、見たんだろ?」
 極めて簡単な質問だ。けれど即答できずしばらく黙っていた。それが答えになるとわかってはいても。
 おれの無言で悟ったのか、コックは口から下を湯舟に沈めて、ぶるると空気を吐き水面を泡立たせ、そのあとプハッと顔を上げ、額に手を当てて髪をかき上げ天井を見上げた。
「やっぱりそうか……」
「おい、おれァ何も見たとは言ってねェぞ」
 何とかそう口に出したが、手遅れの予感に満ちている。
「今さら手遅れだクソマリモ。おれァ一生黙ってるつもりだったけどよ……まさかあん時、てめェと目が合うとは思わなかったぜ。油断したな」
「たまたまだ。ありえねェ想定すんな」
「ありえねェ? ほんとか?」
 じっとこちらを見ている男となるべく目を合わさないようにするが、これはもうぶっちゃけるしかねぇなと腹をくくる。嘘はつきたくない。それに今さら互いに分かりきった事なのだ。
「なあゾロ」
 聞きなれない柔らかな低音に不意を突かれ、つい顔を見てしまった。
「おれも本当はありえねェと思ってるし、ただの夢だったら助かると思ってる。けどな、ロビンちゃんが言うなら正しいのはわかってるだろ? 残念ながら、いや誠に遺憾ながら……」
「ああもううるせェ! 回りくどい事ばっか言うな! おれも見た、それでいいだろ!」

 てめェと、同じ夢を見た。よりにもよってあんな夢を。

「……あー、……改めて認められるとなァ、どうしたもんか」
 コックはそう言ってガシガシと後頭部を搔きむしった。
「は、どうにもできねェだろ、見ちまったモンは」
「そうなんだけどよ。あの前後の状況もわかんねェし、なんであんなことに……」
「知るか」
 不意に夢の中の出来事が甦り、思わず身を固くした。どうしたもんか、などとあっさり言って済ませられるようなもんじゃない、そう反論したいが、夢の最後に起こった強烈なある感情を思い起こすと、到底うまい言葉など出てきやしないのだった。それどころか、腹の底に湧き出すなにか粘度の高い、得体のしれない衝動に全身の毛穴から汗が噴き出して風呂のせいなのか体温のせいなのか、もう区別のつかないほどに身体が茹で上がってしまっている。それもこれも、全部あの夢のせいで。しかもさらに悪いことに、あの夢の同じ感触をこいつも脳内で再現しているだろうことを思うと、もはやいてもたってもいられなかった。
「おい、思い出すな。絶対ェ思い出すなよ、いいか。思い出したらその場でてめェを斬る」
「な、んな無茶言うなよ、あんな生っぽい感触思い出すなって方が無理」
 コックが言い終わらないうちにザブリと立ち上がった。
「おし、じゃあ斬られていいってこったな」
「わかった、わかったって。でもなゾロ、これだけ言わせてくれねェか」
「なんだ」
「……てめェでよかったぜ」

 なんと返事をしたのか覚えちゃいないが、この時のコックの言葉が、あの夢とセットになりずっと尾を引くことになるのだった。





 耳元に規則的に吐き出される、熱い息。

「てめェん、ナカ、熱ぃ」
「言う、な、……ッ」
 まるで火の塊のようなものが、体の中心を何度も貫いて、往復していた。どれだけの時間かもわからない。時間の感覚なんてない。ただひたすら熱い。そして苦しいのに、その苦しさを手放せずおれの手のひらは床の布を破れるほど握りしめ、さらにそのおれの手を上からきつく握りしめている手のひらがある。汗に濡れて手の甲から滑り落ちるその度に、何度でもその手は握りしめ直してくる。
 骨が軋んで折れそうだ。
 背中全体を覆っている熱い身体は、次第に激しくおれを揺さぶり、ある時点で痙攣するように震えたかと思うとその途端、内部に満たされるものがあった。隅々にまで染み渡るようにその温かい液体がおれを侵食してゆくのを、ある感情の中で受けて止めていた。それは、酩酊に似た、抗いがたいものだった。
「ふ…………」
 小さく細く、奴は耳元で息を吐いた。その後しばらく、浅い呼吸を繰り返して、おれの首元は奴の息に埋もれた。
 ズル、と、熱の塊が離れてゆく感覚。ぴたりと密着していた肌の間に空気が滑り込み、濡れた汗を冷やそうとする。手の甲から浮いた手を、思わず追って握り力を込めて引いた。
「ゾ、ロ…………?」
「ッ、まだ、行くな」
 自分の口から出たセリフがまるで自分でないように、ふわふわと辺りを漂う。けれどもそれは嘘のセリフじゃない。握った手を床に押しつけ、離れようとした体をもとに戻したかったのだ。自分の身体にこの男を縫い留めたまま、堕落した貝のようにただじっとひとつでいたかった。
 止めどなく溢れてくるその強い感情にずっとずっと溺れていたい、などと。
 コックは、握りしめられた手をそっと裏返して、手の甲に唇を当てた。

 ◇

 あんなものは、あり得ない感情だ。
 あのコックに。このおれが。ましてや身体を預けて、あんなふうに。
 あり得ねェだろ。

 おれから離れて去ってゆく背中。
 その時の強烈な感覚が一体なぜ、どこから生じたのか。
 ずっと、おれはその疑問に囚われてきた。
 それは広がってゆく傷口のようだ。思えば思うほど痛みは増して叫び出したくなる。

 『ロビンちゃんが言うなら——』
 考古学者の言うことはやはり正しかった。

 一味から去ろうとしたらしいあの男への憤りは、おれの傷口を深く深く抉る。胸を掻きむしり、努めて冷静でいようとするおれの腕を震わせる。このおれにそんなことができる人間は、あの男しかありえないのだ。
 全部繋がった。必然だった。
 おれがあの日見た夢は、真実だった。

 晴天だった昼間に続いて、冴え冴えとした夜の海原の真ん中に、丸い月が居座っている。

 ギシリ、と梯子を上る音。誰なのかは見ずとも分かっていた。

「よう」

 振り向けば酒瓶とつまみの入った籠を抱えたコックが一人。
「なんだ、不寝番はおれ一人でじゅうぶんだ」
「わァってるさ。おれは、ただ休憩に来ただけ」
 こちらが反論しようもない理由をつけて、クソコックはおれの隣に陣取って座った。
「酒、あんのか」
「ほれ」
 差し出された瓶を受け取り、グラスに満タンになるまで液体を注ぐ。それをグイと一気に飲み干すと、隣の男はくく、と小さく笑った。
「なんだ」
「今日は逃げねェの? マリモくん」
「あ? なんで逃げる必要がある」
「……そうかい。やっと腑に落ちたか? あの時の」
「何が」
「ゆ、め」
 コックの顔がぐっと近寄って、鼻先に目を細めた青い瞳がある。
「……どうだかな」
 あれからずいぶんと経った。おれには確認したいことがひとつあった。それをまだコイツに言っちゃいないのを、おそらくコイツも分かっているのだろう。
「てめェはどういうつもりだったのか知らねェが……あれァ合意だ」
「…………」
 細めた青い目が、少しだけ見開かれた。
「そうじゃなきゃてめェは死んでる」
「……ははッ、そりゃそうだ」
 いかにも可笑しそうにコックは声を出して笑った。そして胸元のポケットから煙草を一本取り出すと、ゆっくりとライターで火を点けた。右手の人差し指と中指に挟まれた紙筒は、しばらくの間白い煙を漂わせて黙っていた。
 窓から差し込む月明かりが、床に静かに白い筋を作った。
「……ゾロ」
 再び振り向いた青い目には、これから言おうとする言葉を含んで揺れている。
 言わずとも、もう知っていたことかもしれないが。
「てめェでよかった、って言ったけどよ、あの時」
 まだ吸われていない煙草が、持ち主の手で床に擦り付けられた。その手はおれの肩にたどり着き、ゆっくりと力を込められて身体を向き合わされる。肩から伝わる体温が心臓を包んで次第に取り囲み、目の前の男の唇の動きに合わせるように鼓動した。肩の手はいつのまにか顎に渡り、少しかさついたコックの親指がおれの下唇に添えられた。

 ——てめェがいいんだ。

 そう言った気がする。
 その証の唇は、するりとおれのなかに入り込んできた。まるで馴染みの酒のように。

 白い煙は月明かりに交じって消え、
 床に伸びた月明かりは、時折ふるりと震えた。




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