長い間ひとりで噛み締めてきた思いがある。そいつには名前がない。ただ不快なのかというとそれも違う。噛み締めすぎて苦味に慣れてしまった感があるのが笑えてしまうほどだ。かと言って仕込みが終わった後の一服で誤魔化せるほど簡単なものではなかった。そんな誤魔化しはあの男にだけは通用しない。
「酒」
いつもの単語だけ発して、ゾロはドカリとキッチンのカウンターに腰を下ろした。
「……酒がどうした」
「あ?」
あからさまにゾロは怪訝な声を上げた。
「酒が訪ねてでも来たのかと」
「喧嘩売ろうってのか? まだ残りがあんだろが。出せ」
「ったくそれが人にモノを頼む態度かよ」
「てめェ…機嫌が悪いのは勝手だがよ、おれに当たんな」
「あ?誰が機嫌が悪い、だって?」
「ここ数日、なんだか知らねェが苛つきやがって。分かりやすいんだよてめェは」
あっさりと見抜かれていた事に言葉を失った。普段通りに接していたつもりだったのだが何か滲んでいたのだろうか。コイツは日頃から寝腐っているか鉄団子や刀を振っているだけのくせに、妙なところが鋭くて困る。
「イラつかせる誰かがいるのかもしれねェな」
「あ?」
「いちいち気にすんな、どうでもいいさ。ほれ」
しばらく黙らせるために、グラスに溢れるほど多めに酒を注いで目の前に置いてやる。
「……」
イラついている、そう見えるならそうなのかもしれない。原因が目の前にいて理由を説明できるわけもない。そのくせ、おれは仕込みの後にコイツがここに来るのも分かっていて。
「おい、アレなんだ」
唐突にゾロはテーブルに一輪刺してある花を指差して言った。
「ああ……ロビンちゃんの花壇から頂いたんだ。大きい花だろ。この花、色んな別名があるらしくてよ、例えば」
花中の王。
「うわあ素敵だあ、まるでロビンちゃんのことみたいだなァ」
「あら、嬉しいけど、それはむしろ別の人を意味するんじゃないかしら」
「え? 別の……って」
「どちらかというと男性への賛辞だと思うわ、その花の名は」
「え……」
彼女は特に誰をと指したわけじゃなかった。この船にはむさ苦しい野郎は何人も乗っている。それでもおれの頭に浮かんだのは、どうしたってあの男だった。
「その名にふさわしい人なんて、そうはいないと思うけど。ふふ」
そう言って、ダイニング用に、と彼女は一輪、美しく開いた花を手渡してくれたのだった。
「例えば、なんだ」
「いや、別に……何だよ、てめェ今まで花に興味があった試しもねェのに」
「てめェがそれ飾ってから、あからさまに機嫌悪ィじゃねえか。だからよ」」
「は……? ッ、美しいものにおれが機嫌を損ねるわけねェだろうが」
「何でもいいがおれに当たんな、酒食らったらボンクに戻る」
そう言ってゾロはグラスを急角度に傾け、ゴクリゴクリと喉仏を上下させてからプハッとアルコール臭のする息を吐いた。グシ、と口元を太い腕で拭って、テーブルにダン、とグラスを置く。ダイニングのベンチに大きく脚を開いてどっしりと座るその様は、どこから見ても精悍な雄そのものなのだ。
なのにおれは、なぜそれを、美しいなどと思うのだろう。
「ごっそさん」
立ち上がり、悠々とした足取りでゾロはダイニングを後にした。その背中が扉の向こうに消えるのを見届けて、おれはテーブルに座る大輪の牡丹に目を移す。憧憬ともいうのか。妬心ともいうのか。もしくはまさか、恋情か。どんな名でもこの花は甘く香る。けれどそれが恋なら残酷だ。茨のように人を刺す。たしか古の人もそう言ってたじゃないか。
華やかに開く花弁の真ん中に、ポタリと何かが零れた。
これは涙なんかじゃない。実りの穀雨だ。
柔らかな花弁をそっと指で触れる。あの新緑色の髪にいつか触れることができるなら。今はまだ、訪れる夜を閉じ込めることしか出来なくても。